大正時代

授業内容は1・2年生が、修身、国語、算術、唱歌、体操、3年以上は、図画、理科、裁縫(女子のみ)、国史、地理が順次加わりました。2年生では国語が全時間の過半を占めました。

大正9年 女子体操改良服

▲大正9年 女子体操改良服

それまで、女性が運動するための服装は存在しなかったため、女子体育の普及には服装が重要な問題でした。その後、体操服の改良と普及が進み、はつらつと運動する少女たちの姿が浸透すると、大正10年代には女子体育ブームが起こり、スポーツ少女が女学生の憧れの的となりました。

▼大正10年の卒業証書
▲大正10年の卒業証書
▼大正10年の卒業証書
▲大正14年当時の先生
▼大正14年に建設された奉安殿
大正14年に建設された奉安殿
明治22年に全国公私立の学校に教育勅語の謄本が下付されたのをきっかけに、ご真影(天皇・皇后の写真)の下賜を出願する学校が続出しました。大正4年には粕壁小学校、春日部中学校にもご真影が下賜されました。学校ではご真影、教育勅語謄本を奉置する場所を特定することと、守護のために当宿直を置くことが命じられました。その後、安全面から独立の奉安殿が建設されるようになりました。大正期に奉安殿を建設した学校は県内に5校しかなく非常に早い方でした。奉安殿は学校の中で一番神聖な場所とされ、登下校時には最敬礼する習慣が形成されました
関東大震災

大正12年9月1日、関東大震災で校舎は倒壊、一部は大破しました。教室は電灯が揺れて天井にぶつかりそうな程、外に出れば瓦がが落石のように降ってきました。庭に逃れても激しい揺れで立っていることもできません。そのうち2階の校舎がくの字に曲がって倒れました。瓦がなだれ壁が崩れ砂埃が立ち上がりました。冬の青空教室は、霜解で生徒の腰掛けはびしょびしょ、黒板は濡れて白墨が滑りました。
粕壁町では全半壊646戸、死者29人を出しました。 

▼大正12年の関東大震災で崩壊した校舎
大正12年の関東大震災で崩壊した校舎
▼崩壊後の露天教室
崩壊後の露天教室
▼関東大震災のことが書かれた文集
関東大震災のことが書かれた文集
▼尋常科3年生が書いた文集
尋常科3年生が書いた文集
▼尋常科5年生が書いた文集
尋常科5年生が書いた文集
▼高等科の生徒が書いた文集
高等科の生徒が書いた文集

【尋常科3年 男児の作文】
9月1日の地震のとき、ぼくは新町橋にいました。おうかん(往環=表通り)へ逃げだそうとすると、よその人に止められました。ぼくは助かりました。家へ帰ろうとするとまた地震で、私は泣きたくなりました。そのうちにようやく落ち着いたようだから、少し待っておうかんへ出ると、ぼくの友達の○○ちゃんの家がつぶれていました。石屋の物置もつぶれていましたから驚きました。
ぼくの家もつぶれているのかと思って大急ぎに家へ帰りました。家に帰ると、家の人は非常にうれしがって、ぼくを木につかまらせました。ぼくは本当にうれしく思いました。そして、家の壁が落ちるのを見ていました。
東京が火事だといってお父さんがかけつかてきました。見ると、東京の方の空は真っ赤でした。それを見てぼくは恐くなりました。そのうちに、粕壁でも半鐘がなりました。この粕壁でも火事があったのかと思うと恐くなりました。(以下略)

【尋常科3年 女児の作文】
9月1日十二時五分前、あのとおりの地震で学校はつぶれました。私がちょうど、新町橋でガスリンポンプで水を出しているのを見ているとき、あの地震が起こりました。
川の水が真っ黒になってだんだん動いてくる。そのとき、わたしのそばにいた子は「あれ、あれ」といって橋の向こうのほうに這って行ってしまいました。橋の向こうの家はばたばたと倒れました。地震が止んだので家に帰ろうと湯屋のそばまで来たらまた動き出しました。わたしは湯屋の裏の畑に逃げました。私の家はつぶれていなかったけれど、裏の壁はすっかり抜け落ちていました。(以下略)

【尋常科3年 女児の作文】
9月1日のことは、1ヶ月あまりも経った今になっても、考えると恐ろしさに身震いがします。
暑い休暇(夏休みのこと)も終わって、友達と学校に行きました。学校から帰って姉さんたちとお話をしていると、ぐらぐらとゆれました。私は自信だと思いましたが、いままでのような地震だと思って外に出ようともしませんでした。ですが、ますます揺れるのが激しくなって、瓦が落ちる、棚にあるものがガラガラという凄まじい音を立てて落ちてきました。私は夢中で表に飛び出しました。お父さんの手に姉さんと2人でつかって、どうなるのかと思っていると、○○さんの家がつぶれました。お母さんと二人の子どもが泣きながら私の家の前を通ったときには、とてもかわいそうでした。私の家も壁が落ちて半つぶれです。
どちらかの人が頭から血だらけになって通りました。あちらこちらでも家がつぶれたという話を聞いたときには、本当に恐ろしくなりました。まだまだ余震がくるというので、近所の人と一緒に最勝院の庭に逃げて行きました。大きな公孫樹の木の下にいましたが、日はだんだんと暮れてきて、ますます恐ろしくなりました。東京の方は空が真っ赤です。そのうち、真っ赤な真っ赤な雲がこちらの方に流れてきました。こちらの方まで燃えてくるかと思われました。私の家は半つぶれですから、家の中で寝ることはできません。表に縁台を出して、そこで恐ろしい夜を過ごしました。次の日、親戚の人が迎えにきて、姉さんたちと親戚に行きました。

【尋常科3年 女児の作文(東京から粕壁へ逃げてきたようです)】
私は朝起きて学校へ行きました。学校をすませて家に帰りました。お昼になったのでお膳を出していると、あの騒ぎです。私たちはすぐにひふくしょう(被服敞)に逃げました。しばらくすると風並みがひどくなってきました。お母さんが「だめだから、おまえたちは先に出ておくれ」とおっしゃいました。私たちは先に出ました。危ないところを通って行きました。それから両国橋をわたって上野に逃げました。それからようやく川口というところにつきました。そこで五、六日泊まって、粕壁に来ました。ずいぶんくたびれました。

【尋常科3年 男児の作文(東京から粕壁へ逃げてきたようです)】
僕等が学校から帰って、お昼ごはんを食べていると、あたりがぐらぐらとゆれだしたので、みんなはたんすにつかまりました。そのうちに地震が大きくなったので、庭のおすべりの下に入りました。そうしたところが電車通りに火事がおこっていました。僕等は急いで高橋に逃げました。ところがほうぼうから火事がおこってきました。いよいよいけなくなったので、ずんすんと逃げ出しました。すると高橋で自転車が二台倒れていたのでお母さんがひっくりかえって、ぼくに湯沸かしの水をひっかけました。ぼくは着物がびしょびしょになってもずんずん進んで永代橋にきました。そして、みんなでおにぎりを食べ始めました。そうしたら、永代橋のところで火事があったので、今度はぼくはおじさんにおぶさって州崎の原に逃げて少し休みました。ところがしょうせん学校にも火事が起こりましたので、今度は変なところの野原に出ました。そこも燃えているので防波堤のそばに出ました。火の粉がくるのでマントをかぶっていました。おじさんが帯を川に入れ水にひたして、そこの水をかけてくれました。舟に乗り一晩そこにいました。するとおじさんが焼けた缶詰を持ってきました。ところが津波が来るというので舟をおりてもっと大きな舟に乗ろうとしましたが、いっぱいだったので乗れないので土手に登っていました。おじさんがどこからか氷を持ってきて、玄米と氷を交換しました。そして、われ鍋で玄米をおかゆにして食べているときにお姉さんが見つかりました。また、お父さんにあったときは、本当にうれしゅうございました。そして永代橋の下の舟に行きました。兄さんとお姉さんとおじさんは粕壁に行かれました。そしたら新町のおばさんは死なれたそうです。おじさんは又東京に帰って、今度はみんなで粕壁に行こうと思い、にっぽりで汽車に乗れなかった僕等は、また千住の方へ行き、馬車に乗り西新井の橋を越えて、一軒家へ行き、おそばを食べているとどこかのおじさんが来て「私の家においでなさい」といってそこの家に行きました。そして、あくる日に自動車にのり粕壁に来ました。今は粕壁に家を借りてそこにいます。

児童数の変遷

児童数の変遷

大正時代の歴代校長先生

10代目 川上定之丞
11代目 坂口福作
12代目 小林倭子
13代目 豊田憙弌
14代目 高橋徴三郎