昭和時代

▲昭和3年 御大典記念
▲昭和3年 御大典記念
大正・昭和両天皇の御大典は、それぞれ大正4(1915)年11月10日と昭和3(1928)年11月10日に京都御所で行われました。天皇の即位儀礼には、前天皇の死後ただちに後継者が即位する「践祚(せんそ)」、天皇即位を国の内外に宣言する「即位式」、新天皇がその年の新穀を神と共食する「大嘗祭(だいじょうさい)」の3つの異なる儀礼が含まれていましたが、明治42(1909)年の登極令の制定により、即位式と大嘗祭は、前天皇の喪が明けた年の秋冬の間に続けて行われることに決められました。このふたつの儀礼をセットにしたのが「御大典」であり、国家的なイベントとして盛大に行われました。

昭和10年の学芸会
▲昭和10年の学芸会(東武座にて)
明治時代以来、運動会と並ぶ代表的な学校行事とされ、学習指導要領のうえでも、学芸的行事のなかに位置づけられている。小学校の学芸会は、古くは、保護者や地域の人々に学校教育の実情を知ってもらうことも一つのねらいで、学業奨励会、教科練習会ともいわれ、そのために農閑期などを選んで計画されることが多かった。

▲昭和12年の卒業生
▲昭和12年の卒業生

▲昭和12年 修学旅行
▲昭和12年 修学旅行(鶴ヶ岡八幡宮にて)

▲昭和14年 現在地に木造校舎3棟を落成

戦後の教育

学習指導要領(試案)が昭和22年に告示され、昭和24年以降、民間が編集する教科書が発行されるようになりました。昭和24年~35年は、児童の実際の生活場面のなかから題材を選び、算数の学習をするという「生活単元学習」というスタイルをとっていました。指導目標についても、現在とは大きく異なるものとなっていました。

昭和36年から昭和45年までは系統学習時代といわれ、生活単元学習に基づく教育に対し、学力の低下が叫ばれ、算数・数学の目標をどうとらえるのか、身につけさせるべき学力とは何かが論じられました。

昭和32年にソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したのをきっかけとして、欧米を中心に科学教育向上の気運が高まりました。

世界的な規模で展開された現代化運動でしたが、学校現場では、集合などの新しい内容や過多な学習内容に対するとまどいも少なくありませんでした。しだいに、マスコミからも「落ちこぼれ」などのことばで現代化批判がなされるようになります。
こうした流れのなかで昭和52年に改訂された学習指導要領では,「ゆとりと充実」がキーワードとしてかかげられ、基礎的な知識・技能を重視し、基本的な概念の理解を目指すため、学習内容が精選されました。

戦後の粕壁小

第19代高橋校長が在任中(昭和23年4月~27年3月)、春日部中学校の新築工事があり、竣工するまでの間、小学校に同居していたので2部制の授業を余技なくされていました(竣工後は、普通の授業に戻った)。現在は、立派な体育館がありますが、当時は入学式も卒業式も校庭で行っていたそうです。
また粕壁小は、東部3群の中心校で校舎も立派で、先生方も研究熱心でよい成績をあげていました。
戦後間もないことで、単元学習という学習形態が研究されはじめ「国語における単元学習」という主題で研究発表を計画しました。新しい学習形態なので一から考えていかなければならず、困難の多い研究でした。
関係する図書を読んだり、講師を招いたりもしました。研究には、議論百出、夜遅くまでかかったことがしばしばでした。女の先生方など、夜遅くなっては危険なこともあるので早く帰るように頼みましたが、帰る人は1人もなく研究の熱意に驚いたものでした。
給食も当時はバラック建てに近い粗末なところで作っていました。
特に給食関係の職員はなく、PTAのおかあさん方が毎日数人ずつ順番に登校して仕事にあたっていました。

第20代高野校長が在任中(昭和27年4月~昭和38年3月)、「子供のために使ってください」と現金を送付した人がいました。その手紙の文字や文章から推定してみると若い卒業生です。この美しい話をたびたび粕小新聞へ掲載して、この善行の人を探そうと試みましたが名乗って出た人はいませんでした。毎月かかさず2年もの間送金は続いたといいます。当時の学校は、戦後で物がない時代。送っていた本人も生活が大変だったと思いますが、それ以上に学校に対する深い思い入れがあったのでしょう。

児童数の変遷

児童数の変遷

 

昭和時代の航空写真

昭和時代の航空写真

昭和時代の歴代校長先生

15代目 小林治輔
16代目 坂巻徴郎
17代目 新井友治
18代目 日向熙
19代目 高橋正吉
20代目 高野良吉
21代目 飯野政秋
22代目 福島正
23代目 飯田豊
24代目 石川正美
25代目 岡広男
26代目 永野告一
27代目 岩井清