よくあるレファレンス(道しるべ)
よくあるレファレンスの記録。
先日、郷土資料館に展示する近世の道しるべについて、同じ質問が2日連続でありました。
郷土資料館には、2つの道しるべがありますが、うち1つはレプリカ。原物は粕壁の町並みの仲町の東屋さんの店先にあるものです。
質問があったのは、写真奥のレプリカ(というか東屋さん店先の道しるべ)について。
「行先の文字は読めるが、背面に彫られた文章はどんな意味なのか。読んでほしい。」という質問が、奇しくも2日連続でありました。気候も秋めいてきましたから、まち歩き、散策のシーズンにあわせ、重なったのでしょう。2日連続ならば、よくある質問といえそうです。
市域の道しるべについては、かつて紹介したことがあります。市や行政で編さんした様々な図書で調べることができますが、完ぺきな悉皆調査がされているかと問い詰められると…( ;∀;)
今回の道しるべも、行先が刻まれた3面は『埼葛の道しるべ』に掲載されていますが、背面は紙面の都合もあり、調べる手はずがありません。
では、ここで紹介してしまおう。というのが今回の記事。
「ほごログ」に記すことで、後の備忘とするものです。
道しるべには次のように刻まれています。
(正面)東江戸 右之方陸羽みち
(右)北日光
(左)西南いハつき
東は江戸、北は日光、西南は岩槻。
「陸羽みち」とは日光道中のこと。「陸羽道」とは「陸羽街道」のことで、明治以降の奥州道中(日光道中)の別称です。「右之方陸羽みち」の線刻は浅いので、後年に追記されたものかもしれません。
道しるべに刻まれた行先から、この道しるべは、粕壁の上町、新町橋に向かい街道がクランクするあたりに建てられていたものと推定されます。
さて、肝心の背面には次のような字が刻まれています。
(背面)
古来立木表以記岐路方向、今胥議
以石代之
天保五年二月 春日部駅長 熈等立
文を訓釈すれば、次のようになるでしょうか。
古来、立木を表として以て岐路の方向を記す。今、胥議して石を以て之に代う。
意味は、昔は木表(木標・木柱)を立てて方向を示していたが、(宿内で)相儀(議論)して、今は石に代えて(立って)いる。天保5年(1834)2月、「春日部駅長」の「熈等」(関根次郎兵衛孝熈ら)がこの石柱を立てる。
という感じでしょうか。
関根次郎兵衛孝熈は、当時、粕壁宿の名主をつとめていました。「春日部駅長」は粕壁宿の長、すなわち名主の意と考えられます。当時、宿の行政は、複数の役人で相談しながら運営されていましたので、相談の上、木製の道しるべから、石の道しるべに建て替えたというものです。
粕壁宿の辻で行き交う人々を見守ってきた道しるべ。今は数少ない粕壁宿の面影を物語る石造物となっています。
ご参考にしていただければ幸いです。