ほごログ
古文書勉強会の成果(その11)
平成31年2月2日(土)と古文書勉強会を開催しました。市民の方々が主体的に市内神間地区ゆかりの江戸時代の古文書=神間村文書(春日部市郷土資料館所蔵)を解読しています。これまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。
2月は4点の史料を解読しました。成果は以下の通りです。
【史料番号26】
質物ニ相渡申畑地証文之事
一上畑壱反壱畝弐歩 町田耕地
能勢十次郎様御知行所御水帳面利兵衛名前也
右は当巳御年貢金其外要用差詰リ申候ニ付
貴殿江御無心申、右之畑地壱反壱畝弐歩質物ニ
相渡金四両壱分借用仕只今慥ニ請取申処
実正也、但し年季儀之ハ当巳十二月より来申十二月迄
中三ケ年季ニ相定申候、此畑地ニ付諸新(親)類等不申及
横合より少も構無御座候、若何如様之六ケ敷儀出来
致候とも、我等加印之もの何方迄も罷出急度埒明、貴
殿之質物ニ可致候、聊御苦労ニ相掛ニ申間敷候
一御公儀様御年貢諸役之義ハ貴殿方ニ而御勤被成
べく候、尤年季目之申十二月中ニ罷成候ハヽ、本金四両
壱分急度返金致候ハヽ右之畑地不残御返し
可被下候、若受返し申儀不罷成候ハヽ、流可申候間、此証文
を以右之畑地貴殿所持被成べく候、自然御
縄入等御座候ハヽ、貴殿名前ニ御請可被成候、又は御勝
手ニ而何方へ何程之質物ニ御渡し被成候とも
我等儀ハ不及申右加印之もの印形致為質物ニ
入替可申候、其節違儀申間敷候、勿論此証文
を以貴殿御所持被成候内は、何年過候とも少も
違乱無御座候、為念組中印形致質物証文入
置申処如件
安政五年 下総国葛飾郡
午三月 神間村
出石地主
甚五兵衛㊞
五人組
兵左衛門㊞
同
源次郎㊞
同
林蔵㊞
名主
久左衛門㊞
同国同郡同村
源兵衛殿
(ひとことメモ)
安政5年(1858)の質地証文。地主甚五兵衛が、旗本能勢氏知行所の上畑1反余を質に入れ、金4両1分を借用したもの。
【史料番号28】
質物ニ相渡申畑地証文之事
一上畑三反歩 町田耕地
此分米三石
能勢十次郎様御知行所 御水帳利兵衛名前
右は当巳御年貢其外諸仏(払)方ニ差支貴殿迄無心
申右之畑地三反歩質物ニ相渡し金拾五両借用
仕、只今慥ニ請取申処実正也、但シ年季之儀は
当巳十一月より来ル申十一月迄中三ケ年季ニ相定メ申候、
此畑地ニ付諸新(親)類は不及申、横合より少も構無御座候、
若何方より何如様之六ケ敷儀出来致候とも、我等
加判之もの何方迄も罷出急度埒明、貴殿江質
物ニ可致候、聊御苦労相掛申間敷候
一御公儀様御年貢諸役之儀は貴殿方ニ而御勤可被成候、
尤年季月之申十一月ニ本金拾五両急度返金
致候ハヽ、右之畑地不残御返し可被下候、若請返し
申儀不罷成候ハヽ流可申候間、此証文ヲ以右畑地貴殿
所持可被成候、自然御縄入御座候ハヽ貴殿名前ニ御請
可被成候、又は御勝手ニ而何方江何程之質物ニ御渡し
被成候共、我等義ハ不及申ニ右加判之もの印形
致し為質物ニ入替可申候、其節違義申間敷候、勿論
此証文貴殿御所持被成候内は何年過候とも少も
違乱無御座候、為念組中印形致質物証文
入置申処依而如件
安政四年 下総国葛飾郡神間村
巳十一月 地主
甚五兵衛㊞
五人組
兵左衛門㊞
同
源次郎㊞
同
林蔵㊞
名主
久左衛門㊞
同国同郡
源兵衛殿
(ひとことメモ)
安政4年(1857)の質地証文。地主甚五兵衛が、旗本能勢氏知行所の上畑3反余を質に入れ、金15両を借用したもの。
【史料番号31】
質物相渡シ申田地証文之事
一上田五畝歩 八丁通り
一下田壱反五畝歩 同
一中畑九畝歩 同
一下畑弐反六畝歩 同
一屋敷五畝歩 同
此高四石五升八合 御水帳面新左衛門名前
一上田七畝拾歩 茨田耕地
一中田壱反壱畝歩 同
一下田壱反壱畝弐拾歩 同
一上畑七畝歩 同
一中畑五畝歩 同
一下畑壱反八畝歩 同
此分米五石九升弐合壱勺
御水帳面久松名前
右は当亥ノ御年貢其外払方差詰申候ニ付、
書面之田畑貴殿江質物ニ相渡シ金子三拾両
借用仕、只今慥ニ請取申候処実正也、但シ
年季之儀は当亥十二月より来ル寅ノ十二月迄
中三年ニ相定、田畑質物ニ入置申候間
一御年貢諸役之儀は貴殿方ニ而被成御勤作徳并
立木等貴殿近(進)退可被成候、年季明キ寅十二月ニ
相成候ハヽ、金子返済可仕間地所御返シ可被下候、
若其節請返兼候砌田畑無甲乙其時之相場ニ而
相渡シ可申候、此地所ニ付御年貢未進拝借等外江
借金書入等不仕、組合并親類相談之上質地相渡シ
候間、外より故障之筋無御座候間、流地以後御検地
入ニ相成候ハヽ何様御名前ヲ請被成候共申分無
御座候、依之為後証質地証文相渡シ申処
如件 下総国葛飾郡神間村
天保十年 地主
亥ノ十二月 源兵衛㊞
(切取抹消)[ ]
名主
兼右衛門(印墨抹消)
同国同郡同村
組頭
栄治郎殿
(ひとことメモ)
天保10年(1839)の質地証文。地主源兵衛のほか、二名が連署していたが一名は署名部分を切り取り、兼右衛門は印を墨で抹消している。金子が返済されて反故になったため、このような処置がなされたと考えられる。
【史料番号36】
差上申一札之事
御知行所豆州武州総州先年御先納金
被仰付、村々一同御請仕御上納奉差上候処
今般村々江深ク御憐察を以前書御
先納金不残御下ケ済被下置一同立会
慥ニ奉請取候、依之為後日一同連印之
一札奉差上候処仍如件
元次(治)二年丑二月 御知行所
(後筆) 豆州田方郡
「御知行所 間宮村
武総葛飾郡 名主
神間村 吉田隼太郎
名主 右後見名主
源兵衛 惣四郎㊞
芦橋村
利右衛門 下総国葛飾郡
千塚村 永沼村
孫右衛門 名主
永沼村 野口孝右衛門
名主
野口孝右衛門 神間村
豆州田方郡 名主
間宮村 源兵衛㊞
後見名主 芦橋村
間宮村 名主
吉田惣四郎 利右衛門㊞
名主 千塚村
吉田隼太郎 」 名主
孫右衛門㊞
御地頭所様御内
御役人中様
(ひとことメモ)
元治2年(1865)に旗本能勢氏の知行所(伊豆国・武蔵国・下総国)の村々が能勢氏に上納した先納金を残らず「御下ケ」(返金)とし、これを知行所村々の村役人らが受け取り、能勢家の下僚あてに提出した文書。差出人は下段に判を押しているが、提出する前に連署の順に支障があったらしく、上段に差出人を書き直している。実際に提出されたものではないようである。
次回は、3月23日(土)14時~を予定しています。