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【情報求む】元祖成金鈴木久五郎をご存じ?

鈴木久五郎(きゅうごろう)は、春日部の八丁目出身の実業家で、明治時代「成金」として名をはせた人物です。今夏、春日部市郷土資料館では、鈴木久五郎(通称:鈴久)の半生を紹介する展示会を企画しています。鈴久の事、知らなかった方は、顔と名前だけでも覚えていってください。ご存じの方は、情報を求めています。種々ご教示いただけると幸いです。
明治41年鈴木久五郎(大磯町郷土資料館所蔵)
今回は、展示会でも出品される久五郎の貴重な肖像写真(大磯町郷土資料館所蔵)と、その事績を紹介します。
鈴木久五郎については、『埼玉人物事典』(埼玉県、平成10年)に次のように紹介されています。
明治10年生。昭和18年8月16日没。
株仲買商・衆議院議員。獅子文六『大番』のモデル。八丁目村(春日部市)生まれ。酒造業6代目鈴木兵右衛門の2男。5代目兵右衛門の弟中村清蔵の許で築地商業学校を卒業。兄の7代目兵右衛門が家を継いで明治30年(1897)越ケ谷町(越谷市)に鈴木銀行を設立、同36年久五郎は同銀行草加支店長となった。日露戦争中の37年、株の売買を始めて大儲けをし、成金王の一人となった。中でも、鐘紡の株をめぐる中国人との勝負は、取引所始まって以来のすさまじさといわれた。この年東京小網町(東京都中央区)に同行東京支店が開設されたが、翌38年日比谷焼打ち事件で株式は暴落したため、東京支店の預金を使い、取付け騒ぎが起こった。その後株価は上昇し、39年兜町に株仲買店丸吉を開業、滝沢吉三郎を店主に置き、株式界に本格的に乗り出した。東京鉄道の株を買い占めた後、株式取引所株を買い占めるため、「丙午会」を組織し、増資に成功した。次いで日本精糖株を買い占め、会社役員を辞任に追い込み、監査役に就任、大日本精糖と社名を改称した。このほか、豊鉱石油、日本坩堝各取締役を兼ねた。しかし、40年の日露戦争後反動恐慌によって株式は大暴落し、没落に追い込まれた。41年群馬県高崎市選挙区から中央倶楽部に所属して、衆議院議員に当選、1期務めた。中国の孫文を始め、大隈重信・犬養毅・桂太郎等政界にも交友関係があった。当時の日本を代表する「相場師」の一人である。享年67歳。(参考文献:『一代記鈴木久五郎』

以上の事典の記事は、鈴久の本格的な調査研究はないにもかかわらず、ここまで端的に彼の半生を書いているのは素晴らしいです。しかし、今回展示会開催のための調査を進めていくと、いくつかの新たな事実を確認することができました。今後も、鋭意調査を進めて、展示内容を充実させていきます。

展示会は令和元年7月23日(火)~9月8日(日)を予定しています。乞うご期待。