ばっくなんばー

新規日誌2

愛は錯覚から(2016年5月平松園だより編集後記)

 睡眠中の赤ちゃんがときおりニッコリと微笑む瞬間を見つけ、何を思い出して喜んでるのかな?どんなに楽しい夢を見てるのかな?と思わず想像したことのある方は少なくないと思います。発達心理学研究者の遠藤利彦氏によればこれはただの神経のけいれんによる口角の引上げでしかないとされ、大人がそこに知的な意味を感じるのは「錯覚」ということになります。このほかにも赤ちゃんの様々な表情や発声などに接したり、大人のするのと同じ動作を模倣したりする姿を見て、大人は「自分に何か言いたいのでは?」「何かしてほしいのでは?」「慕ってくれているのでは?」と察し愛おしさを感じたりしますが、当の赤ちゃんには大人が感じるほどにはまだ思いはないようです。しかし、この「錯覚」によってこそ養育者である大人側のかかわり方や働きかけ方が愛着を持った適切なものになり、それによって次第に赤ちゃんの側にも本当に思いや要求、養育者への愛着が実態あるものとして芽生えてくる、ということのようです。わかる気がします。いっぱい錯覚していっぱい察して、応えてあげる、与えてあげるかかわりが、家庭でも保育でも、一層心の豊かな子を育てるんですね。ちなみに我が長男Kも高校生となりました。さすがにこの年齢ともなるとかわいい錯覚はほぼ消滅し「真実」あるのみです、当然ですが。それはそれで、もう表面的な愛着行動を受けなくても生きていけるぞ、という発達の証ともいえるのでしょう。最早抱っこしてあやしたりなだめたりすることも「物理的」に不可能となった今だから反って、あの頃、与えるべきときに十分与えきれていただろうか?応えてやっていただろうか?と、ふと振り返ってみたりします。    
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親としても、運動会がありました(2013年11月平松園だよりの編集後記)

 先日4歳児の娘Cの保育園の運動会に行ってきました。内容は平松保育園に近く、いつものあそびにちょっとのがんばりを盛り込んだような素朴なものですが、第3子目で私とは孫の年齢差の娘の行事ともなると、最早何を見せてくれるのか、はたまたできるかできないか、なんてことが気になりません。何より、みんなといっしょに取り組む運動会が楽しくてしかたないという表情で動き回る様子がただただ嬉しく、それだけで癒されます。それこそが成長の姿とも思えます。振り返れば長男Kの同年齢のときは、たったクラス4人ほどという小さな園の運動会なのに少しでも力を出させねばと、開始直前ひそかに甘いものを買って食べさせたところ、母親にひどく叱られたものでした(私がです)。何を力んでいたのか?情けない思い出です。今では、何も考えずに家族と一緒に我が子のはりきる姿をボヤ〜っと見て和めるひととき、こんな運動会なら来週ももう一回やってくれればいいのに…と、日常が世知辛いせいかそんな願望すら抱いてしまいます。それもまた情けないものがありますが。ともあれ、運動会は運営するより見るに限りますね。(くだらなすぎる締めくくりですみません。)  園長

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