校長ブログNo2486年校外学習(佐倉「日本遺産北総四都市」を訪れて)
12月8日 今日は、1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦の日です。
この日未明、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ合衆国の軍艦に奇襲攻撃をし、日本はアメリカやイギリスなどの連合国へ宣戦布告をしました。この戦争で、日本は、約310万人もの方が亡くなりました。(軍人 約230万人、外地一般邦人 約30万人、内地戦災死亡者 約50万人)
1945年(昭和20年)8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏しました。
▼横芝光町木戸にある護国神社敷地内の「忠魂碑」
【参考】過去ブログNo133-1(8月15日号)「シリーズ白浜小学校はあのとき⑦終戦の日に」
https://schit.net/yokoshibahikari/shirahamasho/blogs/blog_entries/view/37/
▼同 護国神社敷地内にある旧奉安殿と思われる建物
6年生は12月3日(火)千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に校外学習に訪れました。
【参考】白浜っ子の活動の様子
https://schit.net/yokoshibahikari/shirahamasho/blogs/blog_entries/view/38/
小春日和の穏やかな晴天に恵まれた1日でした。国立歴史民俗博物館は佐倉城址の一角に位置します。佐倉城址は当時の地形を生かしたままの「佐倉城址公園」があり、広大な敷地には樹齢が高いさまざまな樹木が茂っています。特に、春には桜の花見としてにぎわったり、秋から冬にかけて紅葉を楽しんだりすることができる、人々の憩いの場となっています。
今回は、6年生が訪れた佐倉が日本遺産(北総四都市)の1つになっていることから、先日紹介した4年生の校外学習で訪れた佐原に引き続き、佐倉の歴史について触れたいと思います。
▼写真は11月30日(土)の城址公園の様子
現在は穏やかなゆったりとした時間の流れる空間となっていますが、この国立歴史民俗博物館のある場所は、もともとは中世(1500年半ば)に千葉氏の城が起源です。その後、江戸時代になり、徳川幕府の重臣であった堀田氏が城主となり、徳川家3代将軍徳川家光の頃から幕府終焉まで約140年間にわたり下総国佐倉藩の藩主として藩政を行いました。幕末には老中を務めた堀田氏の居城である佐倉は、11万石に発展したのです。ちなみに、現在の横芝光町にあたる地域も下総国佐倉藩の領地にあたります。海防のため、木戸には幕府の陣屋が置かれたことは、過去ブログNo179(9月29日号)https://schit.net/yokoshibahikari/shirahamasho/blogs/blog_entries/view/37/
でもご紹介したところです。
▼「木戸陣屋跡 よみがえる海の要塞」 横芝光町図書館ギャラリー展示パネルより
▼江戸時代に作成された地図に残る白浜付近の村名(栗山川東岸に木戸、尾垂、惣領などが見られる。)
鎖国をしていた日本の近海に、19世紀頃から諸外国の船が現れるようになり、通商を求めるようになります。他国に先がけ、アメリカ合衆国は日本と条約を結んだことは、皆さんも歴史で学習したことと思います。1858年日米修好通商条約が締結され、日本とアメリカの国交が結ばれることになります。
▼老中も務めた堀田正睦(ほったまさよし)
▼タウンゼント・ハリス
▼2人の銅像が並んで立っている
その後、不平等条約改正により、1911年に日米通商航海条約に発展解消しました。しかし、1937年日中戦争勃発により1939年にアメリカが日本との条約を一方的に破棄し、失効となりました。さらに、アメリカによる経済制裁、原油輸出禁止、日米交渉の決裂により、日本とアメリカの関係が修復のつかない状況となったのです。1941年(昭和16年)12月8日、日本空軍がハワイ真珠湾に停泊するアメリカ軍艦を奇襲攻撃し、日本政府は宣戦布告し太平洋戦争が開戦したのです。
さて、江戸幕府瓦解後、明治時代になると、富国強兵政策により佐倉城は解体され、兵営学校と施設が築かれました。そしてこの佐倉連隊から日清・日露戦争をはじめ、日中戦争や太平洋戦争において各方面へ出兵し、多くの戦死者が出たのです。1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎えるまで、首都防衛の軍事都市の1つとして重要な役割を担いました。
▼佐倉兵営学校ジオラマ(国立歴史民俗博物館展示品より)
戦後、陸軍病院が厚生省に移管され、国立佐倉病院となり、昭和50年代に移転するまでこの地にありました。同時期、国立民俗博物館建設計画が本格的に進められ、歴史的に重要な舞台となった地である佐倉がふさわしい場所であることも理由となり、1970年(昭和45年)佐倉城址の一角に建設されることが決定し、1983年(昭和58年)国立歴史民俗博物館が開館し40年が過ぎました。博物館内は時代ごとに大きく6つの展示ゾーンに分かれ、順次リニューアル工事が行われ、最新の歴史研究の成果を学ぶことができます。(6年生が見学当時は、第5展示場(ペリー来航から昭和初期までの時代)がリニューアル中でした。)
このように今の歴博のある場所は長い歴史の中でいろいろな役割を果たしてきたため、城址公園内には現在も歴史的な遺跡や構造物が多く残され、目にすることができます。
現在も、世界で紛争や戦争が絶えません。まもなく迎えるノーベル平和賞授賞式(12月10日)で草の根活動を行ってきた「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が表彰されるのを目前として、平和のありがたさを感じるとともに、83年前の12月8日に起きた歴史事象を教訓に忘れないでおきたいものです。
▼佐倉城天守跡
▼現在の航空写真と佐倉城の構造
(写真中の椎木曲輪のあたりが国立歴史民俗博物館の建物が位置する場所になる。)
▼佐倉城本丸跡(写真は2024年8月撮影)
▼猛暑のためか涼を求めて城址公園内を本丸跡方面へ向かって移動中。人間をちっとも恐れない。
佐倉城はこのような高台にあり、佐倉の城下町は馬の背中に作られた天然の要塞でした。そのため、城下町周辺にはたくさんの坂があります。中でもインスタ映えとして話題の坂「ひよどり坂」は非日常的な空間で侍の時代にタイムスリップしたかのようです。
今回、6年生はこのような「歴史と文化の町・佐倉」を訪れました。歴史民俗博物館の他に、武家屋敷も訪れガイドさんの説明を受けたとのことです。また、国立歴史民俗博物館は展示数が非常に膨大のため、第1展示室から見学や体験を進めていくと、後半の展示室の方がどうしても見学時間が不足してしまったとのことでした。私は、9月下旬に箱根・鎌倉方面への修学旅行(1泊2日)の時間を6年生と共にしましたが、学校の授業の様子を見ていても、常に課題意識をもち、向学心のある6年生のことです。バスの車内でレク係が考えた歴史クイズは、しっかりとした知識がないと解けない問題でしたが、車内のあちこちから解答する答えが一発正解。たくさんのクイズ問題を解き、盛り上がりました。さらに、さまざまな見学地先で熱心に見たり感想を述べたりしていた姿勢も印象に残っています。
「佐倉をたずねて新しきを知る」今回の校外学習がきっかけとなり、歴史や人々の生き方などに少しでも興味をもち、また機会があればぜひ訪れてゆっくりと時間をかけて見学し、興味関心や疑問をもって学んでいってほしいなと思います。
▼佐倉城下、武家屋敷につながる通称「ひよどり坂」
秋は「竹の春」とも呼ばれ、美しい竹林の景色が広がります。