学校長からのお話を掲載しています
朝会講話 『藤根善治』の話
益子の聖人・・・たきぎ様『藤根善治』の話
江戸時代、下野国芳賀郡の益子、七井、清水、生田目、上大羽、栗生、深沢の7か村は、黒羽城主大関候の治める土地であり、下の庄と言われた。益子村に陣屋があり、黒羽藩から役人が派遣され一切の政事を司っていた。したがって年貢も、毎年江戸の黒羽藩屋敷に送られた。
1728年(享保13年)の大凶作は益子村を含むこの地域も襲った。そのため、領民は年貢米を納めるのを先延ばししてもらおうとしたが、薪(たきぎ)で納めるように言われ、その代わり平年の倍増の納入を要求された。領民の生活はひじょうに苦しく困ってしまった。
さらに大変なことに、次の年もまた凶作に襲われ、領民はどうしようもない困窮の状況に陥ってしまった。
そこで領民は、薪(たきぎ)年貢を半減してもらえるよう強く願ったが許されなかった。この時、益子村の藤根善治という人は、寝食を忘れて難民の救助に心を砕いた。しかし、苦しさは変わらず、我慢できなくなった領民が一揆を起こそうという形勢に入った。この領民の行動をやめるよう説得し、藤根善治は7か村の代表となって黒羽に赴き、領民の窮状と代官の暴政等を強く訴えた。
これにより、訴えが聞き届けられ、薪年貢は半減納入を許された。領民は負担が軽くなり、助かった。しかし、代官の謀略(ぼうりゃく)により、一揆の頭領、訴え者の代表ということで重罪として捉えられ、1730年(享保15年)2月16日、斬罪を仰せつけられ、妻子もろとも処刑された。その首は、益子町の内町にさらされたという。領民は悲しみ慟哭(どうこく)した。その後、正宗寺(益子中の南東に隣接する寺)に埋葬された。
今も益子中学校の正宗寺に石碑がある。
益子中の建っているところは、聖が丘という。聖とは立派な人という意味であるが、藤根善治を思い浮かべることができる。人のために命がけで年貢の軽減を訴えた藤根善治の生き方には、現在の我々も大いに考えさせられる。
人は、自分のために生きることが大切だが、誰か人のために生きることは、さらに素晴らしい生き方だと思う。
今年は『ふるさと学習』に力を入れていく。その手始めとして、益子の聖人、藤根善治を紹介した。
益子中の生徒には、「利他に生きる(人のために生きる)」という精神が宿っているかもしれない。その生き方を考えてほしい。