ほごログ(文化財課ブログ)

#かすかべ地名の話 (9)#小渕

春日部市内の地名の話。今回は、本日5月2日が千秋楽の企画展「藤・渕・富士 ふじのかすかべ」展でも取り上げている、小渕(こぶち)について。

小渕は、現在の住居表示では「小渕」と書きますが、「渕」の字は「淵」の異体字だそうで、かつては「小淵」と書かれる場合もありました。

小渕の地名の由来については、『新編武蔵風土記』に次のような記述があります。

「村内百余尊権現の縁起に拠れば、当時今の古利根川殊に大河にして、当所は水底深き大淵なりしゆへ、巨淵と号せしより、地名にをはせしを、後に文字を仮借して小淵と書改といへり」

百余尊権現とは、小渕村の鎮守で、現在は鷲神社と呼ばれています。江戸時代の祭神は詳しくわかりませんが、別当は村内にある本山派修験の宮本院でした。明治時代には、鷺神社となるようですので、修験に関わるご祭神だったのかもしれません。この神社の縁起によれば、かつて、古利根川は大河であり、当地は水底が深い大きな淵になっていたため、「巨淵」と呼ばれていたという。地名に大きな淵という意味を背負い、その後、文字(表記を仮借して「小淵」に改めた、あるそうです。

「巨淵」という地名が表記された文献は、残念ながら遺っておらず、真偽は不明です。ただ、企画展「藤・渕・富士 ふじのかすかべ」展でも紹介したように、「渕」は淵・縁とも書き、水が流れずよどんで深いところ(淵)や、物のまわりの部分・めぐる端(縁)という意味があります。

小渕は、古利根川が緩やかにカーブする東の縁に位置し、川沿いには、自然の摂理で形成された河畔砂丘が分布しています。カーブの部分が大きな「淵」となり、また川縁の陸地には川の土砂や砂が堆積しました。「小渕」がかつて「巨淵」だったというのも、あながち間違いではないのかもしれません。

 

さて、企画展「藤・渕・富士 ふじのかすかべ」展は、小渕地区にゆかりのある資料を展示しました。小渕には、小渕山下遺跡、小渕山下北遺跡という遺跡が認められており、古くは古墳時代後期から、奈良・平安時代に人々が暮らし、中世には地域の拠点となっていたと考えられる遺物が見つかっています。今回、市指定有形文化財の「小渕河畔砂丘出土須恵器大甕」や、小渕山下北遺跡出土の漆腕を展示しました。それぞれ、小渕地区、さらには春日部市域の歴史を考える上で非常に貴重な資料です。

画像:展示風景 小渕地区のコーナー

小渕の砂丘は、地元では、「不二山」(ふじやま)と呼ばれました。春日部音頭には「♪桃の不二山~」という歌詞があるように、桃の栽培地として、さらには桃の花の名所としても知られました。粕壁小学校では低学年の児童の遠足先としてよく利用されました。昭和前期と考えられる粕壁小の遠足の写真が残っています。

 写真:不二山

今も国道(旧日光道中)沿いには円空仏祭でこのGWに賑わう観音院をはじめ、河畔砂丘周辺には、朱印寺院でもある浄春院、現存はしませんが、かつて関東の修験寺院を統括していた幸手不動院など、小渕は春日部市域でも特徴的な歴史を伝える地区でもあります。

「小渕」の地名表記は、江戸時代前期の文献まで遡れますが、それ以前は「巨淵」と書いたのか、それともまた別の表記だったのか、残念ながらわかりません。

近年、豊臣政権期に作図されたと推定されている「下総之国図」(船橋市西図書館所蔵)は、まだ下総国に属していた小渕周辺の様子が描かれており、「利根川」(現古利根川筋)沿いに「藤山」の表記がみえます。北側には「本郷」(現杉戸町本郷)の地名がみえるので、おそらくこの「藤山」が小渕あたりで、小渕の「不二山」に通ずるものとも推測されますが、「下総之国図」の史料批判も必要であり、今後、さらなる検討が必要です。

小渕の「渕」、藤塚の「藤」、「不二山」の「藤」、そして、それぞれが富士信仰にも関わっている(かもしれない)という点は、なかなか興味深いなぁと、企画展示の最終日に展示担当者は回顧するのでした。

次期、展示も絶賛準備中です。お楽しみに。