#常設展 #プチ展示替 しました
常設展示の「水とのたたかい」のコーナーの展示資料を展示替えしました。新出資料の武里小学校の日誌です。
今回展示した日誌は、昭和22年(1947)のもの。昭和22年といえば、カスリン台風の水害が起きた年です。
水害のきっかけとなった、利根川の堤防の決壊は、9月16日の午前0時に起こりました。洪水の濁流は、日時をかけて県東部の中川低地を襲い、最終的には東京まで浸水することになったのは、以前も紹介した通りです。
日誌から、水害発生時の学校の対応が明らかになります。
日誌の9月16日条には次のように記されています。
水害予防により全校児童、授業第一時にて打切、帰宅さす
水害が発生した当日、児童は通常通り、武里小学校に登校したようです。しかし、すでに利根川の堤防は決壊しており、濁流が押し寄せてくることはわかっていました。武里小学校では、「水害予防」、すなわち水害に備えるため、授業を一時間目で終え、児童を帰宅させたことがわかります。学校では、水害に備えるため、急遽宿直を2名体制にもしました(通常は1名)。
武里近辺では日中はさしたる被害がなかったようですが、夜になると半鐘が鳴りやまず、宿直の先生は騒がしい一夜を過ごしたそうです。
宿直の先生の記入欄には次のようにあります。
古利根川より浸水のおそれ時をかさねるに従ひ増大す。されど朝に到るも未だ浸水せず。
16日には、古利根川の洪水の恐れが危惧されながらも、17日朝になっても浸水被害はなかったと記録されています。
しかし、17日には近隣からの避難者が学校に集まり、学校は教室を開放しています。現代でも小学校の校舎は避難所に指定されていますが、戦後直後の時代でも困った方たちが集まる場所だったのですね。武里小は、古利根川の旧流路に発達した自然堤防の上に所在していますので、武里地区のなかでもひときわ標高が高い土地になっていることも、地元の方たちは知っていたのでしょう。
武里村では、字備後で古利根川が17日午後1時に決壊し、越水が起きています。日誌では「一ノ割方面ニ浸水」ともあり、翌17日には周辺の被害が次第に生じてきたことがわかります。その後、武里小学校はどう対応したのか。学校の再開はいつだったのか。
あまり饒舌に語ると、せっかくの展示を見に来ていただけませんので、この辺りでとどめておきます。
詳しくは展示で紹介していますので、ぜひご覧ください。