2024年9月の記事一覧
「七小山」について
第5回は「七小山」についてです。
七光台小のシンボルのひとつでもある「七小山」。今でも子ども達のお気に入りの場所となっています。業間休みや昼休みには多くの七小っ子が集まり、鬼ごっこやかくれんぼ等をして友達と楽しい時間を過ごしています。
開校記念誌によると「七小山」は開校記念事業の一環として作られことや、完成予想図も掲載されていました。
開校記念の航空写真にはまだ「七小山」が写っていないことから、工事の開始は11月以降であることが想定されます。
「七小山」の工事は野田市内の建設業者が請け負い、費用が約200万円かかったということが、当時の開校記念事業実行委員会の資料から伺えます。かかった費用は多くの方からの寄付の一部で賄ったということもその資料からわかりました。
10周年記念誌には、61年3月にPTA奉仕作業が行われた様子が記載されています。最後の仕上げとして多くのPTAの方が協力していただいていたことがわかりました。
「七小山」の他にも、タイヤ跳びなどの遊具も、PTA奉仕作業によって作られていたことがわかりました。左後方に「七小山」が写っていないことから、「七小山」ができる前にタイヤ跳びの遊具ができたと想定されます。開校当時、遊具も樹木も何もないことから、多くの人の手で遊具を作ったり、多くの樹木の寄贈をいただいたりしていました。当時、七光台小に対する期待が大きかったことがわかります。
当時の資料からその時の校長先生が、七小っ子に名前の募集をしていたことがわかりました。おそらく、その後の決戦投票により「七小山」に決まったものと思われます。「七小山」は開校当時の子ども達の願いが込められた名前なのです。
30周年記念の際には、古くなった「七小山」が30周年記念事業によりリニューアルしました。その後も大切に「七小山」を守ってきましたが、令和4年野田市の遊具一斉点検により、「七小山」の滑り台は安全基準が満たしていないことから、残念ながら滑り台は撤去という形になってしまいました。しかしながら現在も「七小山」は七光台小学校のシンボルとして、今も子ども達の一番のお気に入りの場所になっています。
「学校周辺の変化」について
第4回は「学校周辺の変化」についてです。
開校当時の航空写真です。校舎がとても白く新しいことがよくわかります。校庭をみると樹木や遊具、七小のシンボル「七小山」もないのがわかります。道路の向かいはまだ林になっていて、現在の商業施設(イオンタウン七光台)もないことがわかります。
開校10周年の航空写真です。校庭には七小のシンボル「七小山」がはっきりと映っているのがわかります。校庭の木々も大きく育つています。道路の向かいはまだ林になっているので、まだ商業施設が建っていないことがわかります。
開校20周年の航空写真です。道路の迎えには大きな商業施設が写っています。調べてみると2004年(平成16年)4月23日「ロックタウン野田七光台」がオープンしたということがわかりました。開校から19年目にあたるので、この写真の1年前にできたことがわかります。
「ロックタウン野田七光台」のオープン時の写真と、オープンに向け、七小の子ども達が植林している様子がわかる写真も見つかりましたので紹介します。
開校30周年の航空写真です。学校周辺の様子は大きな変化はないようです。校庭の木々が大きく育っているのがよくわかります。
創立40周年を迎え、学校の敷地様子も少しずつ変わっていますが、学校周辺の様子は大きく変わっていることがわかりました。これからも地域と共に歩む中で、七小や地域がどのような変化していくのか楽しみです。
「校歌」誕生について
第3回は「校歌」誕生についてです。
「開校記念誌」に七光台小学校校歌について記載されているページがありましたので、それに基づいて紹介したいと思います。
作詞作曲者紹介
宗谷 真爾(そうや しんじ)本名 真。
1925年、野田市生まれ。1991年4月22日没 小説家、医師。
中央小学校、清水高校をへて慶応大学医学部卒。
学生時代、北杜夫らと『文芸首都』に、のち三島由紀夫らの『批評』に参加。中央公論新人賞、日本農民文学賞受賞。野田市で小児科医として開業しながら作家活動をおこなう。小説、古代文化、芸術など巾広い領域に活躍。
著書に「鼠浄土」「王朝妖狐譚」「アンコール史跡考」「写楽絵考」など多数。日本文芸家協会会員。
山﨑 八郎(やまざき はちろう)
野田市木野崎出身。
千葉師範学校を経て東京音楽学校(東京藝術大学)を卒業。音楽の友社作曲コンクール番一位入選を機に作曲家として独立する。NHKテレビ「うたのえほん」「みんなのうた」に、「ポケット」「サンタクロースにプレゼント」など10数曲発表。同時にNETテレビ(朝日テレビ)の教育番組「五線のリズム」「のびる仲間」の音楽を5年間に亘り担当する。
ビクター、東芝、コロムビア、キングその他のレコード各社の依頼によるもの500曲、「キンダーブック」「ひかりのくに」などの幼児雑誌のために80曲作曲する。市歌、校歌、社歌など今回の七光台小学校が61曲目になる。他に歌曲、合唱曲、ピアノ曲など多数。
日本童謡協会理事。日本童謡賞運営委員。雑誌「どうよう」編集委員。日本作曲家協会会員。高松短期大学音楽家教授。
また、学校の沿革史で確認すると、昭和60年8月21日 校歌を作曲していただいた山﨑八郎先生から校歌指導を受けると記載されています。このことから、校歌はその頃から七小っ子に歌われていたことが予想できます。また、七光台小学校校歌を作詞していただいた、宗谷 真爾氏直筆が学校に保管されています。そこには次のようにつづられています。
1 知・徳・体と自立の教えに加え、少年は夢を持たねばならぬことを、利根川の流れがささやくように教えている。そして、そんな学舎が、水と深緑にかこまれて立っているという意味です。
2 「かごめかごめ」のわらべうたが、野田を発祥の地にするという伝説にもとずく。この遊びが持つ平和の風景は、野田を超えて世界につながる希望の、虹の橋です。手をつなぐ子らのまるい輪こそ、新生七光台小学校の理想の旗にふさわしいし、君もあなたも、ぼくもすべての人が仰ぎみてほしい平和の紋章なのではないでしょうか。
3 野田っ子にとって、利根川と江戸川とが母なる自然ならば、筑波は父なる山といえましょう。母の乳房のように、大地にうるおいを与えるやさしい川の流れに対し、筑波山はときとしてきびしい姿をみせ、ひゅうひゅうと風を吹きおろします。しかし、雨にも風にも負けぬ強い子があり、また最近市の鳥にしていされたひばりのさえずりは澄んだ空にあり、市の木欅は大きい傘をひろげたように子らをおおい、高い梢を仰ぎみて希望に胸をふくらませるのです。そんなこの地七光台は、父母が血の汗を流して堅いプラオ(Plough=鋤)を打ちこみ開拓した桃源郷(ユートピア=理想郷)なのです。ちなみにツルゲーネフは、その著『処女地』に、こう記しました。「――処女地を開拓するには堅きプラオを以ってせねばならぬ」と。
作詞 宗谷 真爾(そうや しんじ)先生、作曲 山﨑 八郎(やまざき はちろう)先生が七光台小学校への想いや願いをこめた校歌を、これからも大切に歌い続けていきたいと思います。