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150周年クイズ 答えの書き込みはタイトルをクリック

150周年クイズ第6問 解答と解説

第6問の答えは、Aの「流山小学校へ14名、長崎小学校へ67名転出し、鰭ヶ崎小学校から231名が転入した」でした!

八木南小学校は、昭和55年3月末に、現在の八木中がある古間木の地から今の八木南小学校のある芝崎の地に移転します。この時新校舎が設立されたのですが、今児童の皆さんが勉強している校舎はこの時建てられたものとなります。

それに伴って、学区の再編成が行われ、第6問のクイズで出題されたように児童の転出入がありました。

今年は市野谷小学校・南流山第二小学校が開校され、八木南小をはじめ市内のいくつかの学校で児童の転出入がありました。今から44年前の八木南小でも同様のお別れがあったのでしょうね。

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150周年クイズ第6問

その後、八木南小学校は、戦争中は「八木村南国民学校」、市町村改編で「八木村立」→「江戸川町立」→「流山町立」→「流山市立」八木南小学校と名前を変えながら教育活動を行っていきます。

昭和55年3月末に新校舎が建築が急ピッチで進められ、古間木の地から現在の芝園の地へと八木南小学校の所在地が変わりました。

新校舎への移転とともに学区変更により、他校へ転出する児童がいたり、本校へ新たに転入してくる児童がいたりしました。

そこで問題です。

転出や転入した児童の行き先と人数は、次のA~Cのうちどれが正しいでしょうか、一つ選んでください。

A.流山小学校へ14名、長崎小学校へ67名転出し、鰭ヶ崎小学校から231名が転入した。

B.市野谷小学校へ18名、おおたかの森小学校へ5名転出し、南流山第二小学校から210名が転入した。

C.小山小学校へ21名、流山北小学校へ88名転出し、鰭ヶ崎小学校から389名が転入した。

※答えがわかった人は、「150周年クイズ第〇問」というタイトルをクリックすると下のほうに書き込みができるスペースが出てきますので、そのコメント欄に書き込んで「+コメント」というところをクリックしてください。

第6問の答えと解説は、8/19(月)にお知らせします。

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150周年クイズ第5問 解答と解説

第5問の答えは、Bの修学旅行は今と同じ日光まで行った、でした!

今回は間違えたことを書いているものを選ぶ方式でした。

昭和一ケタの頃は戦時色が強くなってきていて「国防服を着て伊勢の皇太神宮に修学旅行に行きました」とあります。

今のように日光に行くようになったのは戦争が終わって平和に戻ってからのようです。

また、選択肢のAにあるように、普段の学校には毎日着物を着て、下駄を履いて通っていたようです。

さらに、驚くことにはCにあるように坂川が今よりもとてもきれいで、そこで泳いでいたとの記録もありました。

今回の解答と解説はいずれも「創立100周年記念誌」の座談会の記録から抜粋しました。

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150周年クイズ第5問

今の八木中がある古間木の地での「八木村立尋常高等小学校」の学校生活はどのようなものだったのでしょう。

「創立100周年記念誌」でその頃学校生活を送っていた、昭和7,8年頃に入学した方たちの座談会の記録がありましたのでそこから出題します。

次のA~Cのうち、間違っているものを一つ選んでください。

A.学校には毎日着物を着て、下駄を履いて、通っていた。

B.修学旅行は今と同じ日光まで行った。

C.プールはなくて坂川に入って泳いでいた。

※答えがわかった人は、「150周年クイズ第〇問」というタイトルをクリックすると下のほうに書き込みができるスペースが出てきますので、そのコメント欄に書き込んで「+コメント」というところをクリックしてください。

第5問の答えと解説は、8/13(火)にお知らせします。

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150周年クイズ第4問 解答と解説

第4問の答えは、Aの火事で校舎が燃えてしまったからでした!

上の画像にもあるように大正7年2月26日に八木村立第一尋常小学校の校舎、そして学校に記録として残していた公文書類がすべて燃えてなくなってしまったようで、学校自体も前ヶ崎の宝蔵院と野々下の浄蓮寺に分かれて授業をすることになりました。

その後、徐々に学校を立て直し、大正9年にはさまざまなことが起こります。「高等科」を設置して、学校名も「八木村立尋常高等小学校」と改め、今の八木中がある古間木の地に新校舎が設立されました。

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