備後小学校のある備後須賀地区は、昔、初夏ともなれば、里一帯に黄金を散りばめたごとく、やまぶきの花が咲き乱れる美しいのどかな里だったといわれています。
やまぶきといえば、後に江戸城を築いた「太田道灌(どうかん)」のこんな伝説が有名です。
ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけてにわか雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。
道灌が「急な雨にあってしまった。蓑(みの)を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず小さな少女が出てきたのです。
そして、その少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。
花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。
その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺(ごしゅうい)和歌集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王(なかつかさきょうかねあきらしんのう)が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑のひとつもない貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は古歌を知らなかった事を恥じて、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。
この話の舞台になっているのが埼玉県の越生(おごせ)の辺りだったといわれていますが、当時の埼玉県のいたるところに、山吹の群生地があり、備後須賀地区もその1つだったのではないでしょうか。
また、現在の大場(増戸新田)は、岩槻太田の庄とのゆかりのある「太田の庄」であったという言い伝えもあり、武里の地は、道灌の好んだ鷹狩りの地の1つだったのかもしれません。
このようなことから、備後小学校の校章にも、やまぶきが図案化されています。
この校章は、美しい緑の環境の中に5つの地区(備後、東急、大場、大畑、大枝)の子らが仲良く和し、山吹きの花のように明るく、元気な子として力いっぱい学業に励むよう願いをこめてつくられました。