校長ブログNo158 重陽(ちょうよう)(菊の節句)
今日9月9日は「令和元年房総半島台風」から5年が経ちます。(2019年9月9日5時前に千葉市付近に上陸し、関東各地で記録的な暴風となった。千葉市では最大瞬間風速57.5m/sを記録。(観測史上1位) 死者12人、停電64万軒超 (総務省調べ))当時教頭だった私は家を出てすぐに、校長より台風による休校決定の連絡を受け、写真のように途中、倒木や電柱が折れて寸断された道を迂回し、普段なら30分の通勤時間が2時間もかかり、やっとの思いで学校に到着したことを思い出します。停電・断水・避難所の開設と学校再開まで2週間を要し、東日本大震災以来の危機感を感じた忘れられない出来事でした。沿岸部に位置する横芝光町もさぞかしたいへんな思いをされたことでしょう。
「天災は忘れたころにやってくる」という言葉は、「起きてしまった災害を忘れず、日々の備えをしよう」という意味で、物理学者である寺田寅彦(てらだとらひこ)(1878年(明治11年)東京市(現・東京都)~1935年(昭和10年))が防災学者として地震・台風・火山などの被災地を調査したことにより生まれた名言とされます。今年は地震や台風などの自然災害(天災)が多く深刻な被害を及ぼしています。私たちも備えを忘れずに過ごしましょう。
さて、9月9日は「重陽(ちょうよう)の節句」。「菊の節句」とも呼ばれます。
「重陽の節句」は「1月人日(じんじつ)七草」「3月上巳(じょうし)桃」「5月端午(たんご)菖蒲(しょうぶ)」「7月七夕(たなばた)(しちせき)竹」などと並ぶ五節句のひとつで長寿を祈る日です。数字の「9」日本では忌み数字として避ける方向がありますが、中国では数字の「9」は縁起の良い数字です。これは中国語で「永遠」を連想させる「久」と発音が同じ「ジュー(jiǔ) 」であることからだそうです。 さらに、お気づきになったかもしれませんが、五節句はみんな奇数(1・3・5・7・9)の月です。(11月に節句がないのは、中国における陰陽五行思想によるものとの説があります。)中国では、偶数を陰数、奇数を陽数として、その奇数が重なる日を祝う習慣があり、9月9日は奇数(陽数)が重なる日であることから「重陽(ちょうよう)」と読むのです。日本では8世紀の奈良時代に中国から日本に伝えられた文化です。その後、貴族社会に広まり、江戸時代には広く知られた行事で、時代劇でもときどき菊見や重陽の節句が取り上げられるシーンを見ます。
▼1800年代半ば(江戸時代)の錦絵『当世菊見之図』歌川国輝による画。茶屋の菊見の席で、菊で作られた帆掛船が飾られている。(出典「国立国会図書館デジタルコレクション)
私は昭和50年代に小学校生活を送りましたが、小学2年生の音楽科の授業で「菊の花」の歌を学習しました。現在は時代も変わり掲載されていませんが、先月の過去ブログでシリーズ化した太平洋戦争開戦の年1941年(昭和16年)に国民学校第2学年の音楽科教科書に初出となり、約30年間掲載されていたことになります。歌詞を見ると時代背景が色濃く感じられます。現在では2番の歌詞は歌われることが少ないそうです。
「菊の花」 作詞:小林 愛雄 作曲:井上 武士
1番 きれいな花よ 菊の花 白や黄色の 菊の花
2番 けだかい花よ 菊の花 あおぐごもんの 菊の花
3番 日本の秋を かざる花 きよいかおりの 菊の花
菊の花というと、子供の頃は地味な花という印象があり、昔、同居していた祖父が鉢植えに色とりどりの菊の手入れをしていましたが、私はよさがわかりませんでした。初めて「重陽」を知ったのは、高校の漢文の授業です。「9月9日に高い山に登り、酒の入った盃に菊を浮かべて飲み、災難を逃れた」という中国の故事にちなんだという話を先生がしたことが記憶に残っています。ちょうどその頃、祖父が亡くなりました。遺された数多くの菊の花を見たとき、菊の花に対する印象が変化しました。それから大人になり、近所の寺社で開かれる菊まつりや菊人形を見る機会も増え、静かながらもまっすぐ凛とした姿で大輪や可憐な花を咲かせている菊の花の美しさを少しはわかるようになった気がします。
千葉でいつも美しいなと思うことは、菊の花の季節、民家の庭先に黄・赤・紫・白と色とりどりの菊の花が咲き誇る姿です。可憐でありながらくっきりとした鮮やかな存在感のある姿でとても美しいものです。
最後にイベントの紹介を。成田山不動明王御上陸之地(学区である尾垂浜にある)とゆかりのある成田山新勝寺では、「菊花大会」が10月20日~11月15日に行われます。1883年(明治16年)から続く伝統行事で約1か月展示されます。菊の見ごろは11月初旬とのことです。