昨日発行された1年1組の「学級だより」。本日3月11日は東日本大震災から14年。皆さんはどこで何をしていらっしゃったでしょうか。
あの大地震の発生時、震災の真っ只中、福島の地にいらっしゃった古川彩子先生が、今を生きる子ども達に伝えたい思いとは・・・。
古川先生、渾身の学級だよりでそれを感じていただきたいと思います。
3.11を忘れない ~あれから14年~
明日は、東日本大震災から14年です。この年、あなたたち中学1年生の多くが産声をあげました。その瞬間は、ご家族のみな様にとって忘れられない瞬間だったことでしょう。私も忘れられません。14年前の3月11日、午後2時46分。雪がしんしんと降り続く、寒い春でした。マグニチュードは9.0。未曽有の大震災が福島を、東北の地を襲ったのです。それは、何の予兆もない、とある普通の日でした。
急に鳴り響く緊急地震速報。「何?何?なにが起きるの!?」学生だった私は、自分が運転する車に母を乗せ、千葉へと引っ越すための買い出しに出ているところでした。とどまることのない大きな揺れ。その答えを知る余地もなく、ただただ必死にドアにしがみついて耐えるしかありませんでした。揺れがおさまり、地割れを避けながら車を走らせ自宅に戻ると…玄関が崩れ、家が傾いていました。それからはもう、長く辛い日々でした…。でも幸い、家族みな無事でした。私も今、ここにこうして生きて、みなさんと出会うことができた。それは本当に偶然であり、奇跡。
「大変だった」とは、決して言えない。
震災直後の3月28日、誕生日なんてそれどころではなかった。傾く家と、心配そうな家族の表情を後目に、着任のために千葉に向かいました。片道分のガソリンを積み、途中幾度となく余震に遭いながら、なんとかたどり着き、教師となりました。
新しい方々と出会い、「福島出身です。」というと、必ず言われました…「地震大丈夫だった?」「大変だったでしょう?」と。その度に私は、何とも言えない気持ちになりました。何故か。家が崩れ、避難生活を強いられました。でも、私より“大変”な人が大勢いたのです。大学の友人は、地元岩手で、津波によりお母さんを失いました。高校の友人は、お父さんが、放射能で汚染された原子力発電所へ、調査のため被爆を覚悟で派遣されました。そして私の祖父。祖父母の家は農家でしたが、震災により畑を、家を失いました。生きがいを失くしました。そしてあっという間に寝たきりになって亡くなりました。震災関連死、という言葉もあります。直接的な被害を受けていなくても、色々なものを失った絶望や、心労で亡くなっていった人たちも大勢いるのです。出会った方々はもちろん、気を遣って言ってくださったことは分かっています。だけど…正直辛かったです。それが5年ほど続きました。
昨年、震災と同じ年に生まれた子どもたちが、中学校に入学しました。命は巡っている。復興も進んでいる。夏に見た福島の海は、何事も無かったかのように穏やかでした。でも私は、それほど時が経ったとは思いません。あれから14年、されど14年。昨日のことのように鮮明に蘇る記憶。
大変だった。だけど、今生きている。“大変”って、何なのだろう?地震、豪雨、コロナ、そして戦争…大切な人やものを失った人たちに比べれば、私は全然、大変ではありませんでした。どんなに苦しいことがあっても「生きている限り、大丈夫」と、自然と考えるようになりました。いや、そう言い聞かせているのかもしれません。
毎年3月になると、「今ここに居ていいのかな…」とか、それは単なる自分のエゴに過ぎないのではないか、など、様々な思いが頭をめぐって、胸が締め付けられます。でも一つ言えることは、私がここ千葉に来て、教師となり、多くの生徒たちやご家族、先生方と出会えたことは、“生きている証”だということです。だから私は、これからも人との出会いに感謝し、今を、生きていることを大切にしたい。そして、私がここに居る意味…故郷福島を想い、震災の悲惨さと命の大切さを、こうやって学級だより等で子どもたちに伝えること。私にしかできないことだと思っています。それが私の生きる道。辛いことが沢山ありました。でもがんばって生きて、今は、「辛」の文字に、太く大きな「一本」が加わっています。14年前の自分にこう言ってあげたいです。
「今年もまた私は、素敵な生徒たちに出会えて幸せですよ」と。
▼1年1組の学級だより