What’s  New

What’s  New

☆ 8月 6日(火)宝物たちの見守りをよろしくお願いします!!

夏休み前半の部活動も今日で終了。振り返るとあっという間の日々だったように感じます。今朝は、いつも自転車の安全指導を行ってくださっている鰭ヶ崎の三村さんが、除草作業を行ってくださっていました。ありがとうございます!!

1・2年生が中心となった部活動もすっかり定着し、3年生からのバトンをしっかりと確実に受け継いでいます。

今日は、午後1時半から青少年健全育成会議の樫村あい子会長を始め、委員の方5名が本校にお越しになり、校内をご覧いただきました。日頃から本当にありがとうございます!!

明日から学校も機械警備。しばらくは子ども達が学校に来ない日々、家庭や地域で一日の大半を過ごす日々が続きます。

保護者・地域の皆様方、子ども達一人一人は決して学校のものではありません。この地域を作る、日本の未来をつくる大切な宝物です。どうかこの宝物たちへの見守り、声かけを、よろしくお願いいたします。

☆ 8月 6日(火)忘れてはならない日。

今日は「広島原爆の日」。昭和20年(1945年)8月6日に原子爆弾が投下されてから79年。唯一の被爆国に住む我々にとって、決して忘れてはならない日。平和の意味を考えたい日でもあります。

本日午前8時から始まった平和記念式典で、広島市の小学生が「平和への誓い」を読み上げました。この言葉をかみしめたいと思います。以下全文です。

 

目を閉じて想像してください。
緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。
79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。
昭和20年(1945年) 8 月 6 日 午前 8 時15分。
「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。
立ち昇る黒味がかった朱色の雲。
人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。
ある被爆者は言います。あの時の広島は「地獄」だったと。
原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。
被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。
言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。
今もなお、世界では戦争が続いています。
79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、
明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。
本当にこのままでよいのでしょうか。
願うだけでは、平和はおとずれません。
色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。
一人一人が相手の話をよく聞くこと。
「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。
仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。
私たちにもできる平和への一歩です。
さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。
そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。
世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。
令和 6 年(2024年) 8 月 6 日 こども代表

▼昨年度の3年生は、G7広島サミット直後の令和5年5月21日に修学旅行で広島を訪問。語り部の方からのお話に真剣に耳を傾ける姿。広島平和記念資料館(→HPはこちら)で展示に見入る姿。3年生の子ども達は事前の「平和学習」で多くのことを学び、深く、深く考え続けてきた成果が表情に表れていました。

 

☆ 8月 7日(水)素晴らしい作品をWEBでも!!~アートの卵2024~

8月1日から25日まで、流山市大畔(おおぐろ)にある「森の美術館」で行われている、流山市立中学校美術部合同展「アートの卵2024」(休館日:8月11日~15日及び月・火曜日)。

南流中美術部の部長でもある唐馨怡さん(3年)の作品「Peter & St.Paul Church」が見事に「アートの卵賞」に選ばれたことは、先日お知らせしたところですが(→詳細はこちら)、森の美術館ホームページでは、全展示作品の動画がWEBで公開されています。市内美術部の子ども達の素晴らしい作品の数々を是非ご覧ください!!(→詳細はこちら)

 

      

☆ 8月 8日(木)工夫された見出し!!~美術室前の壁新聞1~

南流中美術室前に飾られている壁新聞の数々。2年生の子ども達が、1年生の頃に作成した見事な壁新聞が所狭しと飾られています。

テーマは 食文化、日本の祭、本、KーPOP、SNOW MAN、アニメ、バレーボールなど本当に様々。子ども達がこだわりの上作成した新聞は、どれも個性豊かで読み応え十分。見出しの文言にもたくさんの工夫が詰まっています。

これから3回にわたってご紹介する予定ですので、このままではちょっと読みにくいかも知れませんので、是非拡大して読んでみてください。子ども達の思いの一端に触れることが出来ます。

☆ 8月 9日(金)「平和は人類共有の世界遺産である」

1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、長崎に原爆が投下されて今日で79年。

先日の広島に続き本日、長崎において「平和記念式典」が挙行されました。広島と同様に甚大な被害を受けた「長崎」。我々にとって今日8月9日も決して忘れてはならない日です。今日の式典の中では、被爆者を代表して三瀬清一朗さん(89)が「平和への誓い」を述べました。以下その全文です。

平和への誓い

 11時2分、止まったままの柱時計を見るたびに79年前の悪夢がよぎります。

 当時、私は10歳。夏休み中で、午前中に警報が解除され、母と祖母は洗濯と炊事を始めていました。私は家にあったオルガンで、B29の爆音を真似(まね)して、ブーンブーンブーンと音を出して遊んでいました。それを聞いていた祖母が飛んできて「敵機が来たと間違われるから止(や)めなさい」と叱られ、渋々オルガンの蓋(ふた)を閉めて立ち上がろうとした時、ピカッと眩(まぶ)しい閃光(せんこう)が走りました。とっさに学校で教わった通り、指で両耳・両目を押さえ、オルガンの前に伏せました。次の瞬間、ドーンと鈍い音が響き、続いて爆風が家の中を吹き抜けるのが解(わか)りました。その間、恐怖に怯(おび)えながらじっと堪(こら)えていました。やがて静かになったので、恐る恐る頭を上げて辺りを見廻(みまわ)すと、惨憺(さんたん)たる有様(ありさま)で、太陽が落ちてきたと思いあ然としていると、洗濯していた母が狂ったように子供たちを捜し始めました。我が家は8人家族、幸いにも全員無傷でした。

 数日かけて家の中を片付け、当時通っていた伊良林国民学校の事が気になり、友人と様子を見に行きました。目に入ったのは、「水を下さい、水を飲ませて下さい」と弱り切った声で懇願している、男女の区別もつかないほど血だらけの人や上半身裸で傷を負った人でした。体育館に運び込まれた人たちは、誰かが手当てをしたり水を飲ませたりすることもなく、ただ寝かされているだけで、体育館の中は夏の暑さと漂う異臭で地獄のような状態でした。先程まで苦しさにわめいていた人が急に静かになったと思ったら、既に息絶えており、大人が頭と足を抱えて校庭に運び出し、穴を掘り、板の上に遺体を載せて焼いていきました。自分の学校が死体処理場に変わった光景は、今でも忘れることができません。

 あれから79年、私たち被爆者は健康不安に怯えながら、核廃絶を訴えて来ました。しかしながら、海外に目を向けると、ウクライナやパレスチナなど戦火は収まるばかりか泥沼化しており、多くの子供たちが命を落としています。この悲しい現実を目の当たりにして、戦争の愚かさから目をそらすことは出来ません。平和の尊さを痛感する毎日です。

 現在地球上には推定1万2120発の核弾頭が存在すると言われており、世界においては核兵器の使用が示唆されるなど、一触即発の緊張が続いています。万一使用されるとこの地球がとんでもない状態になる可能性さえあります。本日ご列席の岸田内閣総理大臣へ申し上げます。子供や孫たちが安心して過ごせる青い地球を遺(のこ)していくために、被爆国日本こそが、核廃絶を世界中の最重要課題として、真摯(しんし)に向き合うことを願ってやみません。

 私は、2015年から長崎平和推進協会の語り部として、長崎を訪れる修学旅行生や次世代を担う若者たちに核兵器の恐怖を語り続けており、2023年から英語による活動も始めました。平和とは何かを皆さんと一緒に考え、可能な限り続けてまいる所存です。最後に“peace  is  a  world  heritage  shared  by  all  humankind(平和は人類共有の世界遺産である)”と申し上げ、亡き御霊(みたま)へ捧(ささ)げる平和への誓いの言葉といたします。

2024年(令和6年)8月9日

被爆者代表 三瀬清一朗