最新ニュース!!

1. ☆ 8月13日(水)震災遺構大川小学校を訪ねて

投稿日時: 08/13 サイト管理者

2011年(平成23年)3月11日14時46分に発生した「東日本大震災」。この未曾有の大地震に伴う津波によって、多くの児童・教職員の命が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校を見学する機会を得ました。

本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある北上川を遡上してきた津波は、河口から直線で約3.7kmの距離にあった大川小学校を襲います。当時校庭に避難していた児童78名中70名が亡くなり、4名がいまだに行方不明。また、教職員11名のうち10名が亡くなるという大惨事に見舞われました。

同じ学校に勤務する者として、子ども達の命をどう守っていったらよいのか。

この大惨事から学び、どんな時であっても、どんな場所であっても、未来ある子ども達の命を守る最善の方法を想定しておくこと。そして、それを素早く実践できるよう準備しておくこと。亡くなった方々の命を無駄にしないためにも、我々は絶対にこれらをやり遂げなければなりません。

▼現在、大川小学校は閉校。「石巻市震災遺構大川小学校」として、この悲惨な出来事を風化させないための施設になっていました。

▼正門付近。「石巻市立大川小学校」の文字が見えます。

▼校舎内部の損壊は著しく、コンクリート内部の鉄筋まで剥き出しになっています。

▼校庭。ここをたくさんの子ども達が元気に駆け回っていました。

▼大川小学校の閉校記念碑。校歌「未来をひらく」が刻まれています。命を落とした子ども達ひとりひとりにも、輝かしい未来があったはずです。

▼校庭に向かっているスピーカーは、2台とも形がゆがんでいます。きっと運動会では、このスピーカーから弾むような明るい音楽や、子ども達のアナウンスの声が聞こえていたことでしょう。

▼「地震発生から津波到達まで」の時間の流れが書かれた表示。海側からではなく、川側からの津波に襲われたことがわかります。

▼教職員・児童が避難しようとしていた三角地帯の方向から津波に遭遇しました。

▼黒板や机が見えます。「 月 日 曜日 日直  」の文字。子ども達の教室での平和な日常がそこにありました。

▼津波で亡くなった子どもたちへの追悼と鎮魂の思いが込められた「ひまわり」が様々なところに植えられています。

遺族や地元住民、ボランティアの方々によって大切に育てられているこの「ひまわり」。太陽に向かってまっすぐに伸びる力強さから、未来に希望を抱きながらも津波に命を奪われてしまった子ども達の「命」を象徴しています。また、震災で大きな被害を受けたこの場所に「ひまわり」が咲くことで、悲しみの中でも未来に向かって進んでいこうという希望や、この土地の再生を願う気持ちが表されています。

▼校舎はモダンな外観と機能的な作りであったことが説明されています。

▼「学校では、川からと陸からの津波が校庭でぶつかり渦を巻きました。(中略)想像を絶する凄まじい力が加わった事が分かります」の文字。

▼教室棟とプール棟を繋いでいたブリッジは、津波の水圧を受けて校舎側のジョイント部分で切れて倒壊しています。いかに津波の威力が凄まじいものだったか。

▼北上川河口から直線で約3.7㎞の大川小学校。学校だけでなく、周辺の町をものみ込んでいったことが説明されています。

▼体育館の床はもちろん、天井部分も見当たりません。

▼体育館のあった場所にも追悼と鎮魂の「ひまわり」が咲いていました。

▼野外ステージには、卒業制作で子ども達が描いた楽しい壁画が残されていました。

▼壁画の中には宮沢賢治の詩も書かれています。「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない・・・・・」。

▼「銀河鉄道の夜」を彷彿とする絵や有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩も。宮沢賢治の言葉の一つ一つが胸に迫ります。

▼グラウンドから校舎を眺めたところ。

▼野外ステージも激しく損壊しています。

▼プール。子ども達の明るい笑い声が聞こえてきそうです。

▼先ほどの教室棟とプール棟を繋いでいたブリッジを裏から見たところ。

▼「家庭科室」「6-1」の教室表示が見えます。

▼併設された「大川震災伝承館」。ここで起きた出来事を決して忘れないように未来永劫語り継ぐための施設です。

▼校庭の片隅には震災の慰霊碑が佇んでいました。