ほごログ(文化財課ブログ)

2026年7月の記事一覧

石造物部会の調査(内牧地区・香林寺)を行いました~途中経過~


 6月11日(木)と7月2日(木)に春日部市市史石造物部会で内牧地区にある香林寺の調査を行いました。

 香林寺は内牧地区の中で最も多くの石造物があるお寺で、複数回にわたり調査をさせていただいています。まだ途中ですが、現段階で調査対象としたものだけで40基近くありました。

▼江戸時代の立派な庚申塔があります。

▼高さ2メートル以上ある忠魂碑の拓本をとります。

紙が乾かないようにタオルで覆いながら墨をのせていきます。 

▼忠魂碑の拓本が完成しました。

  当日は、内牧地区で石造物の調査をされている内牧フォークロアの皆さんも立ち会ってくださいました。地域の方々にもご協力いただきながら、調査を進めていきたいと思います。


 2回目の調査は、7月2日に実施しました。残念ながら天候には恵まれず、雨の中での調査となりました。

▼屋根があるところをお借りして、板碑の拓本をとります。

 ▼三脚に傘を付けて、雨をよけながら拓本をとります。

  長い年月をかけてこびりついた苔や汚れによって、文字が読みにくい状態となっている石造物も少なくありません。職員も雨の中、苔まみれになりながら清掃しましたが、文字が読めるようになる瞬間はとても嬉しくなります。

 香林寺の調査はもう少し残っていますので、追加調査をさせていただくことになりました。暑さが本格化する前になんとか終わらせたいと思います。またブログ等で報告しますので、よろしくお願いします。

※もし個人的に市内の石造物をご覧になる場合は、所有者や周りの方へのご配慮をお願いいたします。

【終了間近】春季展示は7月5日までの開催です

5月16日より開催している春季展示「神明貝塚の生業ー石器からの暮らしの復元ー」が今週末の7月5日(日)で終了となります。神明貝塚現地では着々と公有地化が進んでいるところですが、神明貝塚の展示としては、実に8年ぶりで国史跡となってからは初めての開催となりました。

 

平成30年に実施した展示では、神明貝塚の全体をお伝えするような展示でしたが、今回の展示は、神明貝塚から発掘された石器などを中心に縄文人の暮らしに迫りました。「貝塚」、「縄文」というワードから、縄文人は貝や海の生き物をたくさん採(捕)って食べていた、あるいはシカやイノシシといった動物の肉ばかり食べて生活していたとイメージされるかもしれません。果たして実態はそうだったのでしょうか。

 

実は、貝塚から発掘された石器の多くは植物を加工する道具で、神明貝塚の縄文人は植物、特に木の実を多く食べていたことがわかってきました。道具だけでなく、炭化した植物や土器に残る痕跡(土器圧痕)などから、具体的な植物の利用も明らかになっています。

 

展示を通して、縄文人の意外な一面を垣間見ることができたり、縄文人に対する新たなイメージが定着したりするかもしれません。まだご覧になっていないという方は、今週末までの開催となりますので、是非ご覧いただきたいと思います。

みゅーじあむとーくの様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また7月4日(土)には、みゅーじあむとーくを10時30分~、15時~、それぞれ開催します。予約不要で、お時間までに企画展示室までお集まりください。

ハルカイトで発掘された土器の整理作業紹介②

 前回の、ハルカイトで発掘された土器の整理作業紹介①はこちらから!

 

 前回紹介した②注記の作業が終わり、整理室では現在、③接合という作業を行っています。

 

 ③接合
 接合とは、遺物の破片をつなぎ合わせて、本来の形に戻す・近づける作業のことです。
 パズルのように組み合わせていくそうです。

 

↑まず、前回注記を行った破片を仕分けます。
破片が見つかった場所などを確認しながら作業を行っていました。

 

↑接合する部分にはチョークで印を付けて、わかりやすくするそうです。
印を後で落とせるように、チョークを使用しています。

 

↑セメダインCで接合していきます。
接着力の弱いものを使うのが望ましいとのこと。
接合できる破片が無い部分は、石膏などで補うこともあるそうです。

 

↑接合していくと本来の形が見えてきます。
1枚目は土師器(はじき)の甕(かめ)、2枚目は須恵器(すえき)の坏(つき)です。

 

 接合のコツをお伺いしたところ、色や厚さをよく見ること・元の形を想像しながら作業することと教えていただきました!
 接合には、丁寧かつ正確な作業が求められることが分かりました。

 

 この後は実測に入ります。
 今後も作業の進捗状況をほごログにて公開しますので、次回もお楽しみに。

【市民の宝物】古文書をみてほしい

郷土資料館では、ごく稀に古文書があるからみてほしい、というご依頼をいただくことがあります。

つい先日も、庄和市民大学で古文書に接したので、うちにも同じようなものがあるが、内容がわからないから教えてほしい、というお問い合わせがありました。

今回は、古文書の所蔵者の方に許可を得ましたので、少し内容を紹介したいと思います。

お話をうかがうと、この古文書は、広島県のご実家から出てきたもので、跡継ぎの関係で自分が引き取ることになったということ。しかし、お母さんやお兄さんからは詳しい話を聞いたことがなく、持っていてもくずし字が読めず、内容がわからないというものでした。

古文書を拝見すると、豊田家という家の系図を写したもののようです(ちなみに、所有者の方は現在は嫁がれ別の姓です)。

この系図によれば、豊田家は、美濃の斉藤道三の家の末裔ということになり、系図は、斉藤妙椿、藤原利仁、そして藤原鎌足まで遡るものとなっています。

ご存じの通り、斉藤道三は織田信長の義父にあたります。嫡子の義龍に殺されてしまいます。斉藤家は義龍の子龍興の代に信長によって滅ぼされてしまいました。龍興は、越前の朝倉氏を頼り、信長に対抗しましたが、遂に討ち取られ美濃・斉藤家は滅亡してしまいます。

これらの事績は、よく知られる斉藤家の動向ですが、興味深いのは、系図の以下の記事です。

すなわち、龍興が討ち死にした後、信長は斉藤家が絶えることを憂い、龍興の舎弟(義龍の次男)の新五郎なる人物を取り立て、2400石の知行を与え、斉藤家を再興せしめ、嫡子の織田信忠の家臣としたというのです。

写真:系図部分1

しかし、新五郎は本能寺の変で打たれてしまい、斉藤家は、新五郎の嫡子龍本が継承します。龍本は加藤清正に仕えたようです。さらに、その子龍澄は毛利家に仕え、備後国鞆津(鞆の浦)に住み、慶長十年に亡くなったようです。その後の詳しい事績は不明ですが、おそらく備後国にとどまり、家を継承していったようです。

写真:系図2

系図は、正保元年(1647)4月に豊田源次郎と名乗る人物が記したもののようです。末尾では「武門系図壱通リ後代伝者也」(同家は代々武門に秀でた家柄であり、それを後世に伝えたい)と締めくくられていました。

所有者の方に、美濃斉藤家から分かれた家であることや、その後、詳しくはわかりませんが紆余曲折あって備後国に住むようになったこと、そして、正保元年のご先祖が代々の系譜を伝えたいと願い記したものであること、をお伝えしたところ、大変感銘をうけられていました。

ただ、豊田家が江戸時代に武家であったのか、百姓であったのか、その辺りのことは系図からは読み取れず、また、所有者の方も伝え聞いていないとのことなので、謎のままです。

直接、春日部の歴史には関わりがありませんが、春日部にお住まいの方の家の歴史は、巡り巡って春日部の歴史と捉えることができるのかもしれません。ぜひ、大切になさってください。