ほごログ
出張授業「縄文体験教室」 in南桜井小学校
6月14日(金)に南桜井小学校の社会科出張授業にうかがいました。
今回は6年生の2クラスを対象に授業を行いました。
授業の冒頭、「歴史の授業はどのくらい進みましたか?」と聞くと、なんと1時間前の時間に、縄文時代を習ったというクラスがありました!
習ったばかりの状態なので「縄文時代はどんな時代だったの?」と質問にもクラスのあちこちで元気な答えが返ってきました。
出張授業は、歴史の授業の導入としても、また復習としても行っていますが、こんなタイミングが良いことは珍しく、わたしたち学芸員にとっても盛り上がる授業となりました。
さて、授業の前半には、史跡神明貝塚の紹介ビデオをみます。
南桜井小学校は神明貝塚とも比較的に近い位置にあるので、みなさん興味津々です。
続いてパワーポイントを用いて、「学校付近に暮らした縄文時代の生活」について説明します。
最初は春日部が海の底にあったなんて、信じられない様子でしたが、龍Q館を建てるときの工事で、貝殻の層がみつかったことや、発掘調査で縄文時代の遺構からイルカやウミガメの骨がみつかったことを聞くと、だんだんと納得してくれました。
最後にはお待ちかねの縄文体験です。
実際に縄文土器や石器や貝塚の貝殻に触れて、縄文時代の生活を考えてもらいます。
先ほどまで教科書で見ていたものが目の前に置いてあるのは、とても不思議なようです。最初は壊さないか心配が先立つ様子でしたが、緊張がほぐれると、現在の道具と縄文の道具を比較したり、実際に触てみた感想や、「なぜ」「どうして」「どのように作られたのか」などと疑問に思ったことを口にしたりと、積極的に体験をとおして縄文時代の暮らしについて学習を深めてくれました。
南桜井小学校のみなさん、ありがとうございました!
出張授業「縄文体験教室」 in豊春小学校
6月12日(水)に豊春小学校での社会科出張授業にうかがいました。
今回は6年生の3クラスが対象です。
授業の進捗はそれぞれ。歴史の導入として歴史上の人物を調べたクラスから、縄文時代・弥生時代まで学習が進んだクラスまであります。
まずはじめに授業の導入として、春日部市の代表的な縄文時代の遺跡である「史跡神明貝塚」の紹介ビデオを見ます。神明貝塚のある西親野井地区は豊春小学校のある豊春地区とは東西端に位置しますが、メモを取りながら集中してビデオを見てくれました。
続いて、「学校付近に暮らした縄文人の生活」というテーマをもとに、パワーポイントを見ながら、縄文時代の春日部について話をします。実は豊春小付近にある「花積(はなづみ)」という地域には、縄文時代の貝塚やムラが多数広がっている台地が広がっています。
自分の家の近くの知っている地名が出てくると、教室内のあちこちで声があがりました。
最後に縄文体験の時間です。
実際に石器や土器、貝殻を触って縄文人の食生活を体感してもらいます。
いつも土器の感想を聞いているのですが、今回は「パソコンより重い」と答えてくれた児童がいました。
自分の感覚に引き付けた感想を聞けると、うれしいです。
縄文土器の縄に触れながら、この時代の人はどうやって縄を作ったのかと聞いてくれた子もいました。現代に当たり前にある物が、時代を遡って存在していることが不思議なようです。
実は、豊春小学校には昇降口に郷土資料の展示コーナーがあり、その中に花積で実際に出土した土器や石器、魚の骨などが展示してあります。
何気なく通っていた場所に実はすごいものがあったのだと、驚いた様子でした。
豊春小学校のみなさん、ありがとうございました!
人口急増時代の春日部ゆかりの資料
現在、開催中の企画展「まちをみつめて50年」の展示資料を少し紹介。今回は春日部市の人口がぐーんと上がった昭和40年ごろの資料。 #かすかべプラスワン
企画展では、昭和29年(1954)の(旧)春日部市の誕生から、現在の市庁舎が誕生するまでの市政のあゆみを、ギュギュっと紹介しています。なかでも春日部にとって、大きな転機となったのは昭和40年初頭。埼玉県で国民体育大会が開催され、駅西口の風景が大きくかわり、また、武里団地が造成され、市内に1万人規模の街が造られ、春日部の風景は大きくかわっていったのです。
当時の状況を物語る資料は無いかと、収蔵庫から探して並べたのが、下の資料。
手前の大畑小学校の表札は、大畑小学校が平成15年に閉校したときに収集したもの。大畑小学校は、武里団地の中に昭和41年(1966)に開校した小学校で、春日部市にとって、初めての新設小学校でした。団地の中にあるということからわかるように、武里団地が造成され、入居がはじまり、団地の子どもたちが通った小学校なのです。
奥のお人形と、ネズミとアヒルの壁掛けレリーフは、武里診療所旧蔵の資料。閉所した平成7年に収集したものです。武里診療所は、市立病院の出張所として昭和41年に武里団地内に設置されました。これらの資料は団地の子どもたちをあやすため置かれ、飾られたのでしょう。ネズミとアヒルは、世界的に著名なキャラクター。しかし、ちょっと顔が変?診療所設置当時のものか定かではありませんが、昔は類似品や海賊版があふれている時代。ライセンス品ではないのかもしれません。
そして、赤ちゃんの人形。目や髪がクリンとしていて、欧米系の顔つきのようにもみえます。ちょっと苦しそうな体勢で座らせているのは、背中を見ていただきたいため。
背中には「小児科」の文字が。これで、間違いなく診療所で使われていたものであるといえましょう。
いずれも、春日部市の人口が急増したときの資料です。人口の増加はグラフや年表にすれば一目でわかりますが、このような当時のモノからも、当時の世相や雰囲気を感じることができるのではないでしょうか。
展示は、7月7日まで。6月30日には展示解説講座も開催します。ぜひご覧ください。
#常設展 #プチ展示替
郷土資料館の常設展をプチ展示替しました。 #かすかべプラスワン
展示替したのは、毎度おなじみ、展示室の奥の奥の古文書展示のコーナー。
長らく、江戸川開削に関する古文書を展示していましたが、訳あって撤収する必要があり、近年、ご寄贈いただいた市内の不動院野の旧家に伝わる高札を展示しました。
この高札、慶応4年(1868)3月に太政官の名で出されたもの。日本史でも習う(はず)の「五榜の掲示」の一つです。
内容は、キリスト教などを禁止するもの。江戸幕府以来のキリシタン制禁の政策がそのまま踏襲されたものを示す高札です。
面白いのは、この高札の左隅に釘で打ち付けられた穴(写真の赤の矢印)があること。そして打ち付けられた木札(木片といったほうがよいか)も一緒に伝わっていることです。
なぜだか、写真が縦になってしまいましたが、木札には、明治5年(1872)正月付で、埼玉県の名があります。高札の旨を守ることと墨で書かれたもので、内容は何てことないのですが、高札に打ち付けられた木札、珍しいかもしれません。高札はずっしり重い堅木であるのに対し、埼玉県の木札は簡素な杉の木ってところも面白いです。
資料を受領しに、旧家にお邪魔した折り、市内に高札が「まだ」あったことに驚き、またこの珍しい?木札にさらに驚いた記憶があります。
ぜひご覧ください。
【臨時休館のお知らせ】
令和6年6月8日(土)は教育センターの施設点検のため、郷土資料館は休館となります。
ご迷惑をおかけしますが、ご注意ください。
6月9日(日)は通常通り開館します。
5月の近隣博物館・資料館の考古学情報
5月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。(毎月28日ごろに掲載します。)
見学の際は、休館日等、よくご確認の上お出かけください。
(展示会_閉会日順)
・6月2日(日)まで 松戸市立博物館 「たてたて あなあなー竪穴建物の世界」
・6月9日(日)まで 富士見市立資料館水子貝塚資料館・難波田城資料館 「ひらいた 考古館」
・6月23日(日)まで 栃木県立博物館 「栃木の遺跡」
・6月30日(日)まで 栃木県埋蔵文化財センター 「古代の瓦が伝えること」
・6月30日(日)まで 佐野市郷土博物館 「佐野の遺跡」
・7月7日(日)まで 宮代町郷土資料館 「土器でみる一万年 宮代と縄文」
・7月11日(木)まで 武蔵野ふるさと歴史館(武蔵野市) 「旧石器時代の井の頭池周辺―武蔵野市発掘調査成果報告―」
・7月15日(月・祝)まで 幸手市郷土資料館「幸手と杉戸の古墳時代~下総台地の集落と墓~」
・9月1日(日)まで 粕川歴史民俗資料館(前橋市) 「発掘された銅銭ー前橋市内の一括出土銭ー」
・6月8日(土)~7月15日(月・祝)まで 千葉県立中央博物館「発掘された日本列島2024」
(遺跡発表会)
・6月22日(土) 千葉県立中央博物館 「発掘された関東の遺跡2024」 要事前申し込み(6月7日〆切)
(現地説明会)
・7月20日(土) 台東区教育委員会 「北稲荷町遺跡(旧下谷小学校地点)遺跡発掘調査現場見学会」要事前申し込み(6月14日〆切)
*春日部市郷土資料館では「まちをみつめて50年~旧市庁舎と市政のあゆみ」を開催中です
みゅーじあむとーくを開催しました
5月25日、現在開催中の企画展「まちをみつめて50年」の展示解説を実施しました。
今回の企画展は、ざっくり言えば、旧市庁舎ができてから、閉庁するまでの春日部市政の歩みを紹介するもの。扱う出来事は最近のことで、郷土資料館の展示としては異例の極めて現代史的な内容です。
いらっしゃった方にも、はじめにお断りしましたが、今回の企画展は広報かすかべをたどりながら準備しているので、当時の様子や詳しいことがわからなかったり、最近の出来事を評価するにも難しく、至らない部分も多いです。ご参集いただいた市民の皆さんには、そうした点を様々にご教示、ご感想をいただけました。
珍しいのでは!?とご感想いただいたのが、こちらの資料。
昔、市が軽自動車(軽車両)に交付したナンバープレートです。
法令ができた昭和33年以降のものであるようですが、残念ながら、いつ頃のどんな車両につけていたものなのか、広報かすかべでは辿れません。自動車にお詳しい方がいらっしゃいましたら、教えていただけると幸いです。
企画展は、いつもと時代の守備範囲が違う内容なので、お越しになる方がいらっしゃるのか、当日までわかりませんでしたが、お集まりいただいた方々は常連の方もいれば、はじめてお話しする方にもお越しいただき、写真の通り、そこそこ盛況のうちに終えることができました。また、知らなかったことをご教示いただけたので、担当者にとっても有意義な時間を過ごせました。
”神楽”の授業がスタート!ー江戸川小中学校ー
5月22日(水)、義務教育学校の江戸川小中学校では、第4学年の総合的な学習の時間に神楽の学習がスタートしました。地域の歴史文化を学ぶ一環で恒例の授業となっています。
市指定無形民俗文化財『榎の囃子神楽』を継承する榎囃子神楽連の会長さんら3名の指導により、11月の「けやき祭り」に向け、初日の本日はタイヤを太鼓に見立てた打ち鳴らしを練習。
お囃子「ニンバ」は『テンツク・テケンツク・テツクツ・・・』と左右のバチを交互に振りおろし、リズムもゆったりと難しい演目です。4人一組のグループ毎にタイヤに向かって小一時間。あっという間にリズムと4人のタイミングが揃うグループがつぎつぎと!会長さんからもお褒めの言葉をいただきました。
今後は様々な調子のお囃子に加えて、『おかめ・ひょっとこ』『大黒舞』などの伝統的な神楽の演目にも取り組みます。練習の成果は、10月の富多神社の祭礼や11月の学校のけやき祭りでお披露目されます。
この経験から伝統芸能の継承に興味関心をもつ児童が出てくることを楽しみにしています。
出張授業「縄文体験教室」 in川辺小学校
5月17日(金)に川辺小学校へ出張授業に行ってきました。
今年度の出張授業第1回目となります。
3年生の2クラスの「総合的な学習の時間」に招かれ、「発見!探検!春日部じまん!川辺小学校ちかくの昔むかしの生活」について、学習しました。みなさん元気いっぱいに挨拶をしてくれました。
3年生では、歴史の授業をまだ習っていませんが、みなさん興味津々です。
授業の前半では小学校はどんな場所にあるのか、氷河時代にさかのぼってお話を聞きます。
縄文人が住んでいたころ市内には海が広がっていたことを勉強しました。
小学校の周辺に広がる台地には、縄文時代の遺跡や貝塚が多くあります。
自分の家の近くで行われた発掘調査の話を聞いて、身近に縄文人が住んでいたことに驚いていました。
授業の後半では、3つの班に分かれて、縄文人の食べ物や道具を触れる体験を行いました。
石器の体験では、黒曜石を用いて段ボールを切るという、切れ味を確かめます。「こんなに切れるんだ!」「カッターよりも切れる!」驚きの声が上がりました。
縄文人の食べ物では、貝塚の貝がらと、川で取れる貝がらを見比べてみます。
貝の種類からも、縄文時代は温かい海が広がっていたことが分かります。史跡神明貝塚では「ヤマトシジミ」中心。「食べているシジミよりも大きい」「おいしいみそ汁ができそう~」と、率直な感想が聞けました。
土器の体験では、市内で出土した縄文土器を実際に見てもらいます。
縄文時代は、これがお鍋のように使われていたと話すと、とても不思議そうにしていました。
実際に縄文体験をして、当時の生活を想像することができたようです。
川辺小3年生のみなさん、ありがとうございました!6月は6年生を対象とした授業を行います。6年生はどんな感想が聞けるのか、楽しみです。また、多くの小・中学校からの出張授業の申し込みをお待ちしています
「さようなら二代目 #春日部市役所 」配布中
本日より、企画展「まちをみつめて50年~旧庁舎と市政のあゆみ~」展(7月7日まで)が始まりました。春日部市の旧庁舎の閉庁を記念した企画展示です。 #かすかべプラスワン
展示は、昭和29年(1954)に(旧)春日部市が誕生してから、旧庁舎(二代目市役所)が閉庁するまでの、春日部市の歩みを様々な資料を展示して紹介するものです。旧庁舎が完成するのが昭和46年(1971)1月のことですので、旧庁舎は春日部市政の大半と月日を過ごしてきました。とくに、春日部のまちが駅の西側に広がり、「近代的な都市」へと歩みを進めていく、その市政・まちづくりの中枢にもありましたので、近代的な発展を遂げた市にとって象徴的な建造物ともいえるでしょうか。この旧庁舎(二代目市役所)が昨年12月閉庁したことを記念し、展示を企画するにあたり、今回、「さようなら二代目春日部市役所」と題するリーフレットを作成しました。
一見、地味ですが、そこそここだわっています。
タイトルの「さようなら二代目春日部市役所」の「春日部市役所」の文字は、旧庁舎の玄関に掲げている「春日部市役所」の文字をトレースしています。建築に明るい人に言わせれば、この文字のレタリングが近代建築の風合いを遺しているとか。浅学ながら、旧庁舎は、いわゆる「モダニズム建築」と「ポストモダニズム建築」の狭間に置かれた建造物なのだろうと思います。文字も結構ですが、専門家の方には、まずは建物自体の建築史的な建物の評価をしていただきたいものです。
表紙の写真は、落成当時に「新市庁舎完成記念特集号」として発行された「広報かすかべ」の表紙です。新庁舎の完成が市にとって重要な出来事であったことがうかがえます。展示室では複製版をご覧いただけるようにしていますので、気になる方はぜひご来館ください。
背景は旧庁舎のタイルの画像となっています。リーフレットを開くと、見開きの背景は旧庁舎の内装のタイルの画像だったりもします。
このリーフレットは、ご来館いただいた方に無料で配布しています。旧庁舎や春日部市政をふりかえる機会にしていただければ幸いです。
展示名:企画展示(第69回)「まちをみつめて50年~旧庁舎と市政のあゆみ~」
会 期:令和6年5月18日(土)~7月7日(日)
会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室
入 場:無料
関連事業
・展示解説講座「広報かすかべにみる市政のあゆみ」
と き:令和6年6月30日(日)10時~12時
ところ:教育センター
申込み:郷土資料館に直接、電話、電子申請
・みゅーじあむとーく(学芸員による展示解説)
と き:5月25日(土)10時30分~、15時~
ところ:郷土資料館 企画展示室
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旧市庁舎の池
企画展「まちをみつめて50年」では、昨年12月に閉庁した旧市庁舎(二代目市庁舎)にスポットをあて、市政のあゆみを紹介しています。 #かすかべプラスワン
上の写真は、竣工直後の二代目市庁舎。鳥瞰の写真で周囲の様子もわかる、大変貴重な写真です。先日、市役所内の担当部署から移管されたものです。あたりに田んぼの形跡があるように、二代目市庁舎は、昭和46年(1971)1月落成し、田園のなかからひとり、近代化していく春日部の町の有り様を見守ってきたといえるでしょう。
そんな、たくましさすら感じられる二代目市庁舎について、いろいろと調べているうちに「昔はこうなっていたのかぁ」と、小さな発見がありました。実は、池があったのです。
池はなんと、正面玄関の階段の脇です。スロープになっている段差を利用して、そこを池にしていたようです。図面でも池があることは確認できていたのですが、半信半疑。しかし、下の写真(昭和49年)を発見し、確信にかわりました。
この池、現在は植栽が植えられ、当時の面影は残っていません。いつ、どのような理由から池が植栽に変えられたのか、現時点では不明です。
へぇ~、と思った次第です。
【どこにあるかわかるかな?】目指せ資料館ハンター!
埼玉県鉄道高架建設事務所と郷土資料館が協力して、
令和6年4月1日(月)に、教育センター1Fに鉄道高架PR展示室を開設しました。
教育センターに入って、エレベーターやお手洗いを抜けたガラス扉の先に展示室があります。
以前は教育委員会の執務室として使われていた空間です。
ちょっと分かりにくい場所ですが、勇気をもって入ってみてください(笑)
展示室には駅周辺の古写真のみならず、粕壁宿のペーパークラフト模型や、古利根公園橋、鉄道高架事業の駅周辺の模型なども展示してあります。
そこで!
郷土資料館・鉄道高架PR展示室をよりじっくり味わってもらうために、こんなプリントを作成してみました。
「目指せ資料館ハンター!」
写っている写真は、郷土資料館もしくは鉄道高架PR展示室内に設置された模型の一部分をズームアップしたもので、その場所を探してもらうというゲーム感覚で楽しんでいただけるプリントです!
写真の中に含まれる色や特徴など、様々なものを手掛かりにぜひ探してみてくださいね!
プリントは郷土資料館内に設置してありますのでご自由にお取りいただき、挑戦してみてください♪
#企画展 「まちをみつめて50年」準備中
GWが明け、5月18日(土)から始まる企画展示「まちをみうめて50年~旧庁舎と市政のあゆみ~」の設営が本格化してきました。 #かすかべプラスワン
今回の企画展では、昨年12月に閉庁した旧市庁舎にスポットをあて、その旧市庁舎が誕生し、閉庁するまでの市政のあゆみを紹介するものです。
旧市庁舎が落成したのは、昭和46年(1971)1月。閉庁するまで53年間、春日部市政とともに歩んできました。そんな長い期間の市政をくまなく紹介するのは、せま~い郷土資料館では不可能ですから、今回は、市制の周年事業や特徴的な取り組みを中心に紹介する予定です。市制40周年の「かすかびあん」も登場予定。
初日まで、あと1週間。毎度ながら、果たして間に合うのでしょうか。
展示名:企画展示(第69回)「まちをみつめて50年~旧庁舎と市政のあゆみ~」
会 期:令和6年5月18日(土)~7月7日(日)
会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室
入 場:無料
関連事業
・展示解説講座「広報かすかべにみる市政のあゆみ」
と き:令和6年6月30日(日)10時~12時
ところ:教育センター
申込み:郷土資料館に直接、電話、電子申請
・みゅーじあむとーく(学芸員による展示解説)
と き:5月25日(土)10時30分~、15時~
ところ:郷土資料館 企画展示室
県指定文化財”小淵観音院円空仏群”の公開
五月晴れの絶好の行楽日和となりました本日5月3日(金)、小淵山観音院では、埼玉県指定有形文化財“円空仏”が公開され、午前から多くの拝観者でにぎわいました。
『微笑みの円空仏』とも親しまれ、魅了する木像仏を間近で拝観できる年一度の機会、本堂の静寂の中で思い思いの時をお過ごしできたようです。地元小渕地区の方はもちろん、県内外からもこの日を楽しみにしていたという声を聞くことができました。
「聖観音菩薩立像」一木から彫り出された円空仏では県内最大の194㎝を測る。口元には微笑みがこぼれ、頭巾様の宝冠には阿弥陀如来の化仏が配置されている。
「伝毘沙門天立像」四天王の中でも最強の神。竜頭様の兜の左右に唐草文様が彫り込まれている。
「不動明王立像」右手に宝剣をもち、口元には歯牙をあらわす厳しい表情を示す。県内唯一の立像の不動明王像である。
本年の公開は例年より一日延長、5月6日(月)まで、午前10時から午後5時まで。また、特別プログラム「宵会(ヨイノカイ)」もご用意されております。(お問合せ先:小淵山観音院 048-752-3870)
この機会に木像彫刻に生涯を懸けて創りあげた円空の芸術に浸ってみてはいかがでしょうか。
#かすかべ地名の話 (4) 花のつく地名 #花積 #西宝珠花
市内の地名の話題。今回は企画展でも紹介している花のつく地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来
市内の「花」のつく地名は、住居表示でも使用されている「花積」「西宝珠花」です。
花積、西宝珠花はともに春日部市域の端っこにあたりますが、それぞれ大宮台地と下総台地の突端に位置しています。そのため、原始時代から先人たちの暮らしていた痕跡=遺跡が検出される地区であります。また、歴史時代において、特に中世の記録史料にも花積・宝珠花の地名が確認されます。中世の記録等に市域の地名が確認される例は、数えるほどしかありませんので、花積、宝珠花は中世の春日部市域を考える上でも重要です。
しかし、なぜ「花」という言葉が地名についているのでしょうか。花積・宝珠花の地名の由来については、様々な説があります。諸説については花積と西宝珠花の「地名のはなし」の回に譲ることにしますが、「はな」という言葉の語義を調べてみると、「突端」や「先端」を意味するそうです。それが転じて「はなわ(塙)」は台地などの高くなっている土地を指すそうです。顔の「鼻」も顔のなかで突起している部分、あるいは先端ですし、フラワーの「花」も植物の先端に付きます。つまり、「花」とは「突端」「先端」あるいは「台地」の上を意味すると解せます。
翻って、花積と宝珠花の地形をみると、台地の突端に位置しています。地名の由来の定説を決定づけることは難しいですが、おそらく春日部市の「花」は「突端」「先端」あるいは「台地」を意味するものと理解されます。
ちなみに、庄和地区の金崎には「字花輪下(あざ はなわした)」という地名があります。ちょうど国道16号のハンバーガーチェーン店のあたりとなり、南桜井駅周辺に張り出した台地の縁辺にあたります。おそらく、「花輪」はこの台地を指し、その「下」に位置するので「花輪下」と呼ばれたのでしょう。
なお、「花」の地名は、台地が張り出している市域のみならず、他所にもあります。「鼻」の漢字があてられる場合もあるようです。
西宝珠花では、5月3日、5日大凧揚げ祭りが開催されます。「花」の地形も意識しながら、西宝珠花を散策すると、より大凧揚げ祭りも楽しめるかもしれませんよ。
春日部市史 『自然誌編』の頒布を開始します
自然科学(主に地学)による観点にたち、市域の土地の成り立ちや、河川の流れ、地震や台風の自然災害などが、私たちの暮らしにどのような影響をおよぼしたのかをテーマに編さんした新たな市史「自然史編」を刊行しました。
市内の土地や河川の流れ、埼玉県東部地域特有の地形である河畔砂丘の現地調査、文献や空中写真、古地図の確認による地形の変遷の確認など、6年間の歳月をかけて調査の成果をまとめたものです。
特に自然堤防を越流した痕跡(クレバススプレー)により、今は人の手により管理されている大落古利根川や古隅田川がかつては度々氾濫を繰り返していたこと、イチョウやハクレンなど市内でよく見られる樹木が、太古に栄え、その後自生種が減り現在では生きている化石植物であること、中世から近世にかけて古隅田川の流れが変わった理由について考察した内容など、最新の学問の成果を取り入れた内容となっています。
また、「地学さんぽ」と題し、各章の内容に収まらないもので、コラム的な内容をまとめた章もあります。オールカラーで420ページ、巻末には、用語の解説も掲載しています。
市内の図書館や公民館にも配架しておりますので、ぜひご覧になってください。関心のある方には、春日部市役所本庁舎4階の文化財課や春日部市教育センター1階の春日部市郷土資料館で有償(一冊3,000円)で本日、5月1日(水)から頒布を開始しました。
《頒布している施設》
市役所4階 教育委員会 文化財課
市役所3階 市政情報課
教育センター 郷土資料館
庄和総合支所2階 総務担当
道の駅庄和
ぷらっと春日部
本書を契機に市内の地形の歴史に興味関心を高めていただければ幸いです。
花積の貝殻坂はどこか!?
4月27日(土)、「*花の彩り*春日部*」展の展示解説講座を開催しました。
今回は、春日部ゆかりの花の話題は他に譲り、「花」のつく地名である花積・西宝珠花の歴史にフォーカスをあてました。
花積、西宝珠花はともに春日部市域の端っこにあたりますが、それぞれ大宮台地と下総台地の突端に位置しています。そのため、原始時代から先人たちの暮らしていた痕跡=遺跡が検出される地区であります。また、歴史時代において、特に中世の記録史料にも花積・宝珠花の地名が確認されます。中世の記録等に市域の地名が確認される例は、数えるほどしかありませんので、花積、宝珠花は中世の春日部市域を考える上でも重要です。
さて、今回は花積の「貝殻坂」について。花積は花積貝塚が所在することで考古学界では著名な地区です。縄文時代には台地の谷あいに海が入り込み、高台に暮らす縄文人が貝を投棄し、それが貝塚となったわけです。花積に豊富な貝が散在していたことは、江戸幕府の官撰の地誌「新編武蔵風土記」の記述にもみえます。記事は次の通り。
塚 高さ四五尺庚塚と云、この外西北に登り、五丈許屈曲せる坂あり、そこより貝殻多くいづれば貝殻坂とよべるなり
花積地区の発掘の報告書にも引用される一節です。解釈してみましょう。当時の花積(花積村)には、庚塚という高さ4~5尺ほどの塚があったそうです。残念ながら塚の位置は不明です。記事は「この外」に坂があると書かれています。「この塚の外側に」ということなのか、「塚の他に」という意味なのか確定ができないのですが、いずれにしても花積村内に5丈(約15m)ばかり屈曲する西北に登る坂道があり、その坂道一帯から貝殻がたくさん出てくるので、地元の人たちは「貝殻坂」と呼んでいる、と解釈できます。
「もし、花積発祥のアイドルグループができたなら、きっとグループ名は貝殻坂46」
そんな妄想を抱きつつ、貝殻坂の場所を特定せんがため、受講者の皆さんと明治9年の花積村地租改正図をから読み解いてみました。今回の講座では受講者の皆さんに下の絵図を配布し、貝殻坂がどこなのか、を一緒に考えていただきました。
前にあげた風土記稿の記事を、花積地内のこれまでの発掘成果に照らしあわせ考えると、花積地内には、貝を含む土層が検出された花積貝塚がありますので、貝殻坂は貝塚周辺と推測されます。花積貝塚は、上の図ではちょうど中央の黄色の枠で囲ったあたりです。たしかに、花積貝塚の石碑が立っている地点の裏手にあたる南側には、細い路地があり、ここが斜面になり、坂道になっています。
この坂道は地租改正絵図にも確認されますので、江戸時代の村の道であることは間違いなさそうです。しかし、絵図でも現況でみても、それほど屈曲しておらず、また「西北」に登る坂というよりは、どちらかといえば東北方面に登る坂道です。貝塚の斜面にあたるので、かつて貝殻が散らばっていた可能性も高いのですが、本当に風土記のいう「貝殻坂」かどうか確定しかねます。
発掘成果を考えずに、「西北」に登り、屈曲する坂道を探してみましょう。花積は、東西寺・二ノ宮神社沿いの南北に縦断する道(越ケ谷道・慈恩寺道)が馬の背、尾根道のように村の標高の頂点になっています。つまり、この道の方向へ東側から交差・接続する道が、西北に登る坂道になるわけです。それを踏まえて、屈曲する道を探すと、図の赤い丸で囲む地点が極端に屈曲しており、また西北にカーブしています。
丸で囲った道を東側に見た写真です。
写真の先が下りの坂になっています。傾斜は5%と急な坂ではありませんが、平坦な春日部市内では珍しい道路標識が設置されています。道路標識で注意を促すカーブと傾斜が、ちょうど丸で囲ったカーブになります。
江戸時代から存在し、西北に登り、屈曲している坂道、ということで「貝殻坂」の要素を満たしています。肝心の貝殻はというと、カーブのあたりは、現時点では遺跡が検出されておらず、貝殻が散っているのかは、舗装されていることもあり、現地では確認できませんでした。
講座では時間がなくお話できませんでしたが、絵図をよく見ると、このカーブには社寺地と同じ色で塗られた土地があります(図では白い丸をつけています)。おそらく、この白い丸の土地に、なんらかの社・祠かあったのではないかと考えられます。詳しいことはわからないのですが、もしかしたら「庚塚」なのかもしれません。推測を重ねれば、このカーブは庚塚の外縁にあたるので、風土記の記事の「この外」とは外側という意味なのかもしれません。
ともかく、花積貝塚の裏の坂道にしても、傾斜5%の道路標識の坂道にしても、どちらも決め手を欠きますので、「貝殻坂」は謎のままです。春日部市内では唯一の名前の付いた坂道「貝殻坂」。今後とも気にかけて追及したいものです。
4月の近隣博物館・資料館の考古学情報
4月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。(毎月28日ごろに掲載します。)
見学の際は、休館日等、よくご確認の上お出かけください。
(展示会_閉会日順)
・5月12日(日)まで 杉並区立郷土博物館分館 「発掘された弥生時代」
・5月12日(日)まで 東京国立博物館 特別企画「令和6年 新指定 国宝・重要文化財」
考古学の展示ではありませんが、考古学分野より「国宝 三重県宝塚一号墳出土埴輪」がとりあげられ、ほぼ完全な形の船形埴輪(ふねがたはにわ)が展示されます。
・6月2日(日)まで 松戸市立博物館 「たてたて あなあなー竪穴建物の世界」
・6月9日(日)まで 富士見市立資料館水子貝塚資料館・難波田城資料館 「ひらいた 考古館」
・6月30日(日)まで 栃木県埋蔵文化財センター 「古代の瓦が伝えること」
・7月7日(日)まで 宮代町郷土資料館「土器でみる一万年 宮代と縄文」
*春日部市郷土資料館「花の彩り*春日部*」展も5月2日までです。「花の彩り*春日部*」展では、花積内谷耕地遺跡出土の縄文時代の関山式土器と貝の内遺跡(西宝珠花)出土の7世紀後半の常陸型甕を展示しております。あわせてごらんください。
常陸型甕と宝珠花―*花の彩り*春日部*
前回の縄文時代の関山式土器に続き、「*花の彩り*春日部*」展で展示している宝珠花は貝の内遺跡から出土した「常陸型甕(ひたちがたかめ)」を紹介します。この甕は7世紀後半の竪穴建物跡から発見されています。
常陸型甕は、土器の粘土に雲母を含み、光が当たると雲母がキラキラと光ります。これは、茨城県南部で採れる粘土を使っていると考えられ、現在の茨城県のあたりが、かつて「常陸国(ひたちのくに)」と呼ばれたことから、考古学では常陸国に特有な甕として常陸型甕と呼んでいます。
武蔵国(むさしのくに)で使われていた長胴の甕とは違い、卵のような形であり、胴部の下方にはヘラミガキと呼ばれるヘラ状の工具で器面を整えた痕跡があります。また口縁部を受け口状につまみ上げるなどの特徴もあります。
常陸甕は、市内では、特に西宝珠花や塚崎などの宝珠花台地の7世紀後半から9世紀ごろまでの遺跡から多く発見されており、当時、市域東部で生活していた人が常陸国の人々と頻繁な関りがあったと考えられています。
展示している常陸型甕は、竪穴建物のカマドの天井を支える「ソデ」と呼ばれる部分から発見されたものです。本来、甕は、現在の鍋のように調理の際の煮沸具として使われるものですが、この甕は、ソデを補強するための材料として使われていました。
前回ご紹介した縄文土器の型式である「関山式」は、蓮田市の関山貝塚で発見された土器をもとに設定された型式でした。花積でも関山式土器が発見されます。7世紀の「常陸型甕」は、常陸国を中心に使われていた土器の型式で、主体的に使われていた地域の地名が型式名となるところに違いがあります。つまり、宝珠花でも常陸型甕は発見されますが、主体的に生産、使用されていたのは常陸国が中心となります。
それぞれの時代の研究において型式の使われ方に違いがあることに注意が必要です。
今年もやってきた藤の季節
桜はとっくに散り、春日部市内の藤の花が見ごろを迎えています。 #かすかべプラスワン #藤 #牛島のフジ
春日部人(かすかびあん)なら、桜よりも藤の花、のはず。粕壁小の敷地に自生している謎の藤の花も見ごろ。郷土資料館から見え、甘い香りがします。
かつて「世界一のフジ」と称された、牛島のフジ(国特別天然記念物)も、この数日間が見ごろのようです。
最近のニュースなどでは、他地域のフジの花が紹介されているのを見かけます。牛島のフジの歴史・文化性は唯一のもの。あの新一万円札男・渋沢栄一も見に来ているのだから、もっと紹介されてもいい、と個人的に思います。
春日部駅西口側では、藤通りの藤棚が見ごろのようで、藤テラス(4月21日)、藤まつり(4月28日)。藤まつりウィークと称し、とイベントが目白押しです。
郷土資料館では「*花の彩り*春日部*」展で、藤をめぐる春日部の歴史も紹介していますので、観藤のついでにお立ち寄りください。
関山式土器と花積ー*花の彩り*春日部*
現在、春日部市郷土資料館で開催中の「*花の彩り*春日部*」展では、花積内谷耕地遺跡出土の縄文時代前期の関山式土器を展示しています。
関山式は、蓮田市の関山貝塚から発見された土器をもとに設定された型式です。もとは「蓮田式」と呼ばれていましたが、戦前、昭和初期の研究で、古い順に花積下層式、関山式、黒浜式と分けられました。
花積下層式、関山式、黒浜式土器は、「羽状(うじょう)縄文系土器群」とも呼ばれ、縄文のつけ方に特徴があります。羽状縄文とは右撚りと左撚りの縄文を上下に連続してつけることで、全体として羽や菱形の形にみえるようにする縄文の施文方法です。
また、縄文時代には「繊維土器(せんいどき)」と呼ばれる、材料となる粘土の中に植物の繊維を混ぜて焼き、割れ口に燃えつきた植物の痕跡が残る土器があります。羽状縄文系土器群は、ほとんどが「繊維土器」です。
関山式土器の特徴として、口縁に文様帯が設定され、竹を使用した複雑な文様が描かれることがあげられます。また、縄文原体の端部などに輪(ループ)を作り、それにより付けられた「ループ文」と呼ばれる縄文が多用されます。
関山式土器は埼玉県を中心に関東地方全域で出土します。春日部市では、今回展示の花積内谷耕地遺跡(花積)のほかに、竹之下遺跡(内牧)、貝の内遺跡(西宝珠花)、風早遺跡(西金野井)、鷲前遺跡(東中野)で関山式土器の時代の集落跡が発見されています。約6,500年前の縄文土器型式と考えられており、すでに始まっている縄文海進の影響を受け、貝塚を伴っているものが多いです。
今回展示している花積内谷耕地遺跡の関山式土器は、口縁部の縁に竹でつけられた細かい文様がまわり、円形の粘土粒が貼り付けられます。胴部はループ文や羽状縄文が施されます。
展示でも触れていますが、花積は花積貝塚から出土した土器をもとに設定された「花積下層式」発祥の地です。しかしながら、縄文土器の土器型式は、地名こそ冠していますが、土器の変遷の指標として使われるもので、花積からも「関山式」の土器が出土します。
展示解説を実施しました
4月20日(土)「*花の彩り*春日部*」展のみゅーじあむとーく(展示解説)を実施しました。
午前は4名、午後は2名と少人数でしたので、時折、ご質問いただきながら進めました。
皆さんの興味があつまったものの一つに、昭和27年の西宝珠花移転前の町並みを紹介したパネル(図)があります。この図は、当時大学生だった方が卒業論文で調査・聞き取りしたノートや自ら撮影した写真をもとに作成しています。西宝珠花は、こののち江戸川改修のため、移転してしまいますので、大変貴重な情報となっています。往時の西宝珠花の繁栄がひと目にしてわかるものです。
午後の方は、明治9年花積村地租改正絵図にご興味をお持ちいただきました。土地が錯綜しており、絵図作成にあたって隣接する村の戸長らが署名していることに驚かれたようでした。
展示の会期は、5月2日(木)までとなっています。お見逃しなく。
市指定無形民俗文化財ー不動院野の神楽ーの公開
桜の花びらが散り始めると同時に葉桜が芽吹き、そして夏日となった4月14日(日)には東不動院野地区の大杉神社境内では、市指定無形民俗文化財「不動院野の神楽」が公開されました。
昨春は地域の皆さまを対象に集会所で小規模の祭礼でしたが、今春は5年ぶりに特設舞台を設け、広く公開されました。
舞台背景では桜が散り始める中、小気味よい軽やかなお囃子が奏でられ、神楽の公開に足を運ばれた皆さんからも「お祭りが戻ってきた!って実感できるね」という、安堵の声を聞くことができました。
祭礼は「大黒様」「獅子舞」で口火が切られ、今春に進学した大学生が堂々とお囃子を演奏してくれました。続く神楽の「大江山」では、高校一年生が巫女役に。地域の皆さんからも拍手喝采をいただきました。
▲堂々とした巫女の舞を、お囃子でも高らかな笛の音色が不動院野地区に響き渡りました。高校生、そして大学生の後継者が祭礼では活躍いただきました。
また、久しぶりの祭礼でしたが保存会のベテランの皆様は日頃の「あうん」の呼吸で口上を面白可笑しく対話をとおして神楽を盛り上げていただきました。
本年は各所で民俗芸能が公開されますので、”祭り囃子”と”郷土の舞”をぜひご覧ください。
#博物館実習 受け入れています
#春日部市郷土資料館 は、今年度も #博物館実習生 を受け入れています。 #かすかべプラスワン
と、告知すると、博物館がお好きな一般の方からお問い合わせがありそうですが、博物館実習とは、大学で博物館学芸員の資格取得を目指す学生が、一定期間、博物館の現場で実際の業務を経験すること。ですから、基本的に未来の学芸員を志す学生さん(市内在住の方優先)に限られます。
当館の博物館実習は、例年7月末から8月にかけて、実施しています。毎年、実習生に「ほごログ」にて実習の模様を報告してもらうのも恒例になってきました。どんな実習をするのかは、下のタグの「博物館実習」「実習生」「実習生の記録」をクリックしてみてください。
実習の受け入れ・申し込みについて、詳しくは、市ホームページをご覧ください。
#円空仏祭 のチラシ
春日部の #GW の恒例行事「 #円空 仏祭」。今年も小渕・観音院にて、県指定文化財「小渕観音院円空仏群」(7躯)が公開されます。観音院のご住職様のご厚意で、チラシをいただきましたので、郷土資料館で配架・配布させていただきました。
このチラシ、ただのチラシじゃありません。
蛇腹折りになっており、経典などでつかわれる折本の仕様になっています。
ジグザグに折ったまま立てると、あたかも円空仏の屏風のよう。
・・・カッコいい。
写真がうまく撮れず、チラシの良さが伝わりづらいので、ぜひお手にとってみてください。
そして、円空仏祭は、5月3・4・5・6日に開催されます。ぜひ実物の円空仏を間近でご覧ください。
鉄道高架PR展示 駅と街がつづる“かすかべ”の歴史 開設のお知らせ
4月1日(月)に埼玉県鉄道高架建設事務所が教育センター内に移転したことに伴い、同事務所と郷土資料館は、鉄道高架事業や駅周辺の歴史をわかりやすく紹介する展示室を教育センター1階に開設しました。
展示ガイドはこちら → 電子版【駅と街がつづる かすかべ の歴史】展示資料一覧.pdf
春日部駅周辺の歴史的な写真や鉄道高架事業の紹介パネル、各種模型を展示し、過去から未来へつながる“かすかべ”の駅と街の魅力をPRします。
主な展示 〇駅と鉄道の歴史
・粕壁宿の手作り模型・粕壁小学校木造校舎模型
・春日部駅と周辺の古写真
〇鉄道高架PRブース
・事業進捗状況の紹介パネル
・鉄道高架事業の駅周辺の模型
場所 教育センター1F
【 #4月1日 】 #今日は何の日? in春日部
今から30年前、平成6年(1994)4月1日は #かすかびあん 宣言の日です。 #かすかべプラスワン
「かすかびあん」とは、「自然を愛し、文化を愛し、人を愛し、未来を愛し、そしてなによりも春日部を愛する人のこと。春日部をもっと好きになりたい、もっと愛したいと願望し他の人にも春日部を好きになって欲しいと願っている人」のこと。
定義はさておき「かすかびあん」といえば、このマーク。市内のどこかで見覚えがないでしょうか。
マークには意味があることご存じでしょうか。「胴体から発信される3本のラインは、緑で春日部の誇る藤と文化を、赤で太陽と春日部の未来を、そして体全体で、躍動するエネルギーと情念を表しています」
「胴体」「体全体」ということは、動物をモチーフにしている模様です。
平成6年(1994)に市制施行40周年を迎えた旧春日部市が、「より暮らしやすい春日部をつくりたい、より魅力ある春日部にしていきたい」を目標として、CI(コミュニティ・アイデンティティ)手法によるイメージアップ推進事業に着手し、4月1日、「かすかびあん宣言」が宣言されました。宣言は以下の通り。
わたしたちは、あたたかいまち、
誇りと感動のあるまち春日部を愛し、
もっと多くの人たちにも、
この気持ちを持ってもらうために行動することを約束します。
そして、この宣言に基づいた「かすかびあんキャンペーン」事業がはじまります。
イメージ戦略なので、具体的に何をしたのかということは、今となっては追跡しづらいのですが、「かすかびあんマーク」を市の刊行物や案内サインなどに多用し、まちづくりに活かす取り組みを進めました。たとえばTシャツ。
いくつかバージョンがあるようですが、手元の資料によると少なくとも94年度から98年度まで毎年度製作されていたようで、98年度(写真右)は「「祭りだ!ワッショイ!!」をテーマに祭りのあとのセンチメンタルを感じさせるデザイン」にしたとか。
かつて「ほごログ」でも紹介した藤のまち春日部を意識した事業も「かすかびあん」関連の事業として取り組まれ、『藤なんでも百貨』の出版や国特別天然記念物の牛島のフジから接ぎ木した苗木を配布したりする「春日部オンリーワン行動計画」が実施されました。「かすかびあんPress’96」(資料番号001-148)には「藤のかすかびあん大募集」の記事がみえます。
市役所のみならず、町の皆さんにもご協力いただき、たとえば、次の画像は、駅東口にあったショッピングセンターの懸垂幕の写真です。
今でも 「もっと春日部、かすかびあん!」というキャッチフレーズとともに、90年代後半ごろに造られた構造物に、マークがあしらわれているものが残っています。
その後、「かすかびあん」という言葉・マークは、平成17年の庄和町との合併ともあいまって、あまり使われなくなってています。
さて、現在、春日部市では、シティセールス戦略プランを策定し、市のイメージ戦略、イメージアップを進めています。シティセールスとは、「選んでもらえるように、まちの売込みをしていくこと」とのこと。
「かすかびあんキャンペーン」でも掲げていたように、まちの誇りや愛着を感じてもらうとともに、人口減少社会の現代において「今後もここに住んでいたいと思ってもらうこと」を重視するものへと変化し、「かすかびあん」という言葉・マークは使われなくなっても、「+1のあるまちkasukabe」のなかに、その理念は現在にも継承されているのでしょう。
郷土資料館では、次期に旧市庁舎と市政のあゆみをテーマにした企画展示を計画中です。「かすかびあん」も旧市庁舎時代に生まれた市政を代表するマークなので、関連資料も展示する予定です。「かすかびあん」の方は必見です。詳しくは後日お知らせします。
過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版、3月14日版、3月27日版、4月28日版、6月2日版、6月3日版、6月10日版、7月31日版、9月1日版、9月16日版、11月25日版
過去の今日は何の日?in春日部シリーズは、上のリンクからお読みいただけます。
#かすかべ地名の話 (3) #粕壁 の #小名
忘れたことにやってくる、市内の地名の話題。今回は粕壁地区の小さな地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来
市内の場合、現在使用されている住居表示は、江戸時代の宿・村の地名であることが多いですが、普段つかっている地名のなかに小さな地名があります。そうした地名は、一般に、小名(こな)とか、小字(こあざ)と呼ばれています。
まずは、昭和11年(1936)に刊行された『粕壁町誌』の付図「粕壁町略図」をみてみましょう。
かつての粕壁町は、現在の粕壁、粕壁東だけでなく、中央、浜川戸、八木崎町、緑町、南、大沼(一部)、南栄町(一部)、豊町(一部)が含まれるエリアでした。上の地図をみると、浜川戸(はまかわど)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)、内出(うちで)、町並(まちなみ)、町裏(まちうら)、井戸棚居(いどたない)、川久保(かわくぼ)、川久保新田(かわくぼしんでん)、土井(どい)、草刈場(くさかりば)、新宿(しんじゅく)、内谷(うちや)、立沼(たてぬま)という地名がみえます。これらが昭和11年当時の粕壁の小字ということになるでしょう。
明治8~9年の「武蔵国郡村誌」には次のような小字が記載されています。
金山(かねやま)、内出(うちで)、寺町(てらまち)、横町、上町(かみまち)、中町(なかまち)、新宿組(しんじゅくぐみ)、三枚橋(さんまいばし)、新々田(しんしんでん)、下組(しもぐみ)、大砂組(だいすなぐみ)、川久保(かわくぼ)、元新宿(もとしんじゅく)、大池(おおいけ)、内谷(うちや)、太田(おおた)、松の木(まつのき)、裏町(うらまち)、前山中(まえやまなか)、上山中(かみやまなか)、陣屋(じんや)、八木崎(やぎさき)、浜川戸(はまかわど)、土井(どい)、井土棚居(いどだない)、草刈場(くさかりば)、馬草新田(ばぐさしんでん)
小字・小名には、①町・村のなかのコミュニティ(現在の町内会)を意味するもの、②土地を小分けした地名を意味するもの、③①と②の両方が混在しているもの、の3通りがあるようです。
粕壁でいえば、寺町、上町などの「町」の付くもの、新宿組や大砂組など「組」が付くものは、コミュニティの名称として使用されますが、草刈場、馬草新田などは、土地の地名として使われています。しかし、これらも人々の生活の移り変わりとともに、土地の名前がコミュニティの名前として使われるようになったり、あるいは、地名自体が消えてしまったりするものもあります。
粕壁は、江戸時代に日光道中が造られてから宿場町として古利根川縁辺の街道沿い(現在の春日部大通り)が町場となっていました。粕壁の人たちは、街道のことを「オーカン(往還)」などと呼んでいたようで、往還沿いは、古利根川境から、寺町、横町、上町(宿・組)、中町(宿・組)、新宿(組)、三枚橋、新々田、下(組)と称されていました。江戸時代後期には、上町・中町・新宿・三枚橋は「宿内四ケ町」とされ、宿場の業務と取り決めを行う町の中心の組となっていたように、これらの小名はコミュニティとしての名称でした。江戸時代の人々は街道沿いの土地を、昭和11年「粕壁町略図」にもみえる「町並」(まちなみ)と称していたようです。
時代を経て、粕壁の人々の生活領域が広がるなかで、最勝院をはじめ寺院が集まる地帯(寺町)、新町橋の手前の地帯(横町)、東陽寺や源徳寺の周辺(新々田)の往還沿い、さらには町並の裏や往還の脇道にも町場が広がっていきました。おそらく、「山中」「裏町」(現在の元町)「陣屋」「松の木」「大砂組」などの、町並のなか、あるいは町の場末にもあたるこれらの地名は、町場が広がり、新たなコミュニティがつくられていくなかで、徐々に小名として定着したものと考えられます。昭和初期ごろ(正確にはわかりません)には、「東町」「旭町」「富士見町」「宮本町」「本町(新宿組)」「一宮町」「春日町」「元町(裏町)」「幸町」などの町内会が成り立ち、住所として併記されることもありました(昭和の終わり頃までか)。
一方、江戸時代に粕壁地内の土地を示した絵図には次のような地名がみえます。
「川久保耕地」「井戸棚居耕地」「内出耕地」「内谷耕地」「八木崎耕地」「浜川戸耕地」「新宿前耕地」「草苅場耕地」「馬草新田」(「井戸棚居」は「井戸田苗」、「馬草新田」は「馬草場耕地」と記されるものもあります)。
これらの地名は、江戸時代の粕壁宿の土地台帳である元禄10年(1697)の検地帳にもみえる地名です(元禄の検地帳には、「内出」「井土棚居」「川窪」「浜川戸」「内屋」「草刈場」「八木崎」「新宿前」「馬草新田」「内田沼」「油戸沼」「立沼」の小名がみえます)。かつ昭和11年の粕壁町略図の農地が広がる地名にほぼ対応し、「耕地」とされることからも、主に土地の名称、とくに田畑・耕作地を指すものとして使われていた小名であるようです。
小字・小名について、どんな意味があるのか、はたまたいつ頃に生まれた地名なのかは、はっきりとわからないものが多いのですが、小さな地名は、土地に刻まれた歴史に思いをはせる糸口になるのではないかでしょうか。
3月の近隣博物館・資料館の考古学情報
3月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。
見学の際は、休館日等、よくご確認の上お出かけください。
(展示会_閉会日順)
・4月21日(日)まで 取手市埋蔵文化財センター 「祈りのかたち―出土品から見る先史時代の祭祀―」
・5月12日(日)まで 杉並区立郷土博物館分館 「発掘された弥生時代」
・7月7日(日)まで 宮代町郷土資料館「土器でみる一万年 宮代と縄文」
なお現在、春日部市郷土資料館で開催中の「花の彩り春日部」展では、花積内谷耕地遺跡出土の縄文時代の関山式土器と貝の内遺跡(西宝珠花)出土の7世紀後半の常陸型甕を展示しております。あわせてごらんください。
「みゅーじあむとーく」開催しました
3月24日(日)、企画展「*花の彩り*春日部*」展のみゅーじあむとーくを実施しました。 #かすかべプラスワン
ご来館いただいたのは、わずか3名と少人数でしたが、時折ご質問いただきなが解説をしました。春日部が桃や牡丹の名所であったことや、西宝珠花や花積の特徴的な歴史についてご理解いただけたようです。
昭和6年のデータをみると、埼玉県内での桃の出荷額第1位・第2位が、幸松村(現・幸松地区)・豊野村(現・豊野地区)なのですが、出荷された桃は、どのような販路にのったのか、というご質問をいただきました。具体的には、同じ県内の千疋村(現・越谷市)を発祥とする某高級フルーツ店に卸されたのか、と。最盛期の幸松や豊野の桃は、水蜜桃という中国原産の桃で、戦後に洋桃も出荷されたようですが、具体的な消費の動向はわかっていません。今後の課題にさせていただきます。
それから、国史跡の神明貝塚について、ご質問もいただきました。神明貝塚は、西宝珠花のお隣の西親野井地内にありますが、それだけ期待が高いということだと思います。史跡の保存と活用を計画的にすすめているところです。これからもご支援のほどよろしくお願いいたします。
ご参加された方には、花積村の地租改正絵図パネル、西宝珠花の町並み図のパネルの印刷物を配布しました。「図をみて花積を散策したいと思います」と話してくださいました。
春の花々をはじめ、「花」の文字にまつわる地元の歴史も楽しんでいただければ幸いです。
次回のみゅーじあむとーくは、4月20日(土曜日)の予定です。人が少ないと淋しいので、よろしくお願いします。
明日3/24に「みゅーじあむとーく」やります
明日3月24日、企画展「*花の彩り*春日部*」のみゅーじあむとーく(展示解説)を実施します。 #かすかべプラスワン
郷土資料館の「みゅーじあむとーく」は展示担当の学芸員が、展示室で展示内容を解説するもの。かつては、「ギャラリートーク」と呼び、近年は「ミュージアムトーク」と呼んでいます。展示の解説があったほうが理解が深まるとの声からはじめたものです。
しかし、「ギャラリートーク」は市教育委員会の「市展」でも出品される美術作品の審査員の先生方が解説するものとして実施されるようになり、また、郷土資料館は「ギャラリーなのか」という疑問も生じ、郷土資料館のギャラリートークは「ミュージアムトーク」に改称するに至りました。その後、カタカナよりもひらがなのほうが柔らかさが醸し出されるので「みゅ~じあむと~く」に発展。「みゅ~」を「みゅー」にするか、またはカタカナ表記か、ひらがな表記かは、担当者の好みですが、最近は「みゅーじあむとーく」で定着しつつあります。考えてみれば、「ギャラリートーク」は市展でもできますが、春日部市内にミュージアムは郷土資料館だけですから、市内の「みゅーじあむとーく」は郷土資料館でしか名乗れない事業かもしれませんね。
さて、「みゅーじあむとーく」は10時30分~、15時~、それぞれの時間に実施します。費用や申込は不要です。お買い物のついでに、お散歩のついでに、お時間がありましたら、お立ち寄りください。担当者は、一人で話しすぎる悪い癖があるので、話は控えめにして、堅苦しくなく、皆さんと一緒に、春日部の「花」の歴史と文化について考えたいと思っています。といってもどんな話をしようか、鼻息を荒くして構想しています。
みゅーじあむとーく
日時:令和6年3月24日(日曜日)・4月20日(土曜日)午前10時30分~、午後3時~(各30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
内容:展示担当の学芸員が、展示室で展示内容を解説します
費用・申し込みは不要です。所定の時間にお集まりください
「かすかべ人物史」公開しました
本サイト内に市域の歴史的人物を紹介する「かすかべ人物史」を作成・公開しました。 #かすかべプラスワン
このブログの左もしくは下にあるメニュー「郷土資料館」から「かすかべ人物史」をクリックしてください。
現在掲載しているのは、埼玉の偉人として埼玉県が普及啓発している、岩井 弥一郎(いわい やいちろう)・加藤 楸邨(かとう しゅうそん)・栗原 伝三郎(くりばら でんざぶろう)・小島 正重(こじま まさしげ)・ 豊田 三郎(とよだ さぶろう)・原 又右衛門(はら またえもん)・三上 於菟吉(みかみ おときち)・見川 喜蔵(みかわ きぞう)の8名です。
まだ、関連する情報は少ないのですが、地元ならではの関連する資料・スポットなど、今後情報を充実していきたいと考えています。さらには、史料的に事績が明らかにしにくく「偉人」としては括りがたい、春日部ゆかりの歴史的な関連人物も増やしていくつもりです。
あんな人やこんな人も思い浮かびます。ご期待ください。
歴史文化講演会 砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査を開催しました
本日、越谷市の莵原雄大先生をお招きして歴史文化講演会「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」を開催しました。多くの方にご来場いただき、誠にありがとうございました。また莵原先生には、大量のスライドを作成いただいて、大変わかりやすくご講演いただきました。ありがとうございました。
海道西遺跡は、3月12日の記事でも触れましたが、北越谷駅の北西側、宮内庁埼玉鴨場近くにあり、令和4年に発掘調査が行われ、平安時代の竪穴建物跡や近世の遺構・遺物が検出されました。遺跡は、大林河畔砂丘上に立地しています。
講義の中でも紹介されました通り、発掘調査報告書は、全国遺跡報告総覧でPDFが公開されています。
海道西遺跡発掘調査報告書(全国遺跡報告総覧)
ご講演では、大林河畔砂丘の範囲が、幅20~30mとかなり限定的であることや、海道西遺跡では9世紀後半~10世紀初頭に少し砂丘の形成が始まった段階で竪穴住居が構築され、その後砂丘が堆積し、15~16世紀の火葬土坑が構築されたころには砂丘の形成が終わっていたとの考察が模式図で紹介されました。
このうち河畔砂丘形成年代の推定について、年代を推定するにあたっては考古遺物や寺社仏閣の立地などが用いられています。たとえば小渕河畔砂丘では、砂丘下から古墳時代後期から奈良時代の須恵器の大甕が発見され、砂丘上には15世紀に開山された浄春院が立地しているので、この間に砂丘が形成されたということはご講演でもご紹介いただきました。
しかしながら、砂丘の形成年代の決定にあたっては、最大の年代幅であることに注意が必要です。つまり小渕河畔砂丘は、古墳時代後期から奈良時代以降のいずれかの時点で砂丘形成が始まり、15世紀以前のいずれかの年代で形成が終わったということです。「形成年代=古墳時代後期~奈良時代」、「終了年代=15世紀」とは言い切れないのです。
本日のテーマであった大林河畔砂丘と海道西遺跡では、「砂丘の形成が少し始まった時点」で竪穴住居が作られたということが、重要な調査成果です。竪穴住居の9世紀後半~10世紀初頭に非常に近い時点で砂丘の形成が始まっていることがよくわかります。砂丘の形成年代の研究に新たな事実をもたらしたことになります。
このほかご講演では、越谷市内の平安時代を代表するものとして国指定文化財「浄山寺の地蔵菩薩立像」(越谷市サイトにリンク)や、大道遺跡、一番遺跡、越谷警察署前遺跡、西口遺跡などが紹介されました。
また海道西遺跡で出土した遺物もおもちいただき、会場で展示しました。
越谷市と春日部市は、自然堤防や河畔砂丘、低地の遺跡など、考古学上のできごとを考える上で共通することがたくさんあります。今後も職員間で情報交換をしながら、連携した事業を展開していきたいと思います。
【出張授業】令和5年度でばりぃ資料館を振り返る
コロナ禍により小学校の団体見学が見込めなくなった年にはじまった「でばりぃ資料館」。おかげさまで、今年度は市内9校、10件のご依頼をいただき、無事終えることができました。
各校の様子については、「ほごログ」で紹介してきたところです。上のメダルは川辺小学校の皆さんからいただいたものです。今回は、お礼の紹介も含めて、今後のために、今年度の「でばりぃ資料館」を振り返りたいと思います。
「でばりぃ資料館」は、郷土資料館に様々な事情で出向けない子どもたちに、資料館にいるのと同じように学習・体験してもらうことをコンセプトにしています。ただ、資料館のすべてのモノを持っていくことはできませんので、普段ケースに入っている資料を触ったり、体験してもらい、春日部の昔を身近に感じてもらえるようにしています。
授業や体験の内容については、小学校の先生方のオファーに可能な限り応えるよう努めていますが、主要な単元は第3学年の社会科「くらしのうつりかわり」です。メニューは、昔の家庭の道具、昔のまち、昔の農業、昔の学校、昔の遊びを柱に立てていますが、オファーは道具、まちの移り変わりが多く、次に学校、農業に集中する傾向にあります。農業については、市街地化が進んだ学校では、カットされる傾向があるようですし、総合的な学習で稲作体験をする学校もあるようなので、「でばりぃ資料館」では敢えてカットされているようです。
先生、そして子どもたちから人気があるのが、昔の家庭の道具。とくに、手回し洗濯機やダイヤル式の黒電話が強く印象にのこるようです。いずれも、自分でまわして動かす、というのが身体的に初めての体験となるため、印象に残るようです。
また、昔の農業のメニューでは、千歯こきをつかった稲の脱穀体験を必ず実施しています。これは稲の本数の都合で全員が体験できるものではないのですが、見学する子どもたちから歓声があがるほど、人気の体験メニューです。「でばりぃ資料館」では、さらに籾摺りの体験をメニューにくわえ、自由時間に籾から玄米にする作業、玄米から白米にする作業を体験してもらっています。これも身体を動かす体験なので、人気です。
昔の学校については、石板、昔の教科書、給食の食器・献立表などを用意し、説明、子どもたちにみたり、さわったりしてもらっています。道具が動いたり、何かできたりする道具とは違い、どちらかといえば、見る・触る体験になるため、なかなか子どもたちの印象に残りにくい模様。ただ、今年度は、3年生の国語の教材「ちいちゃんのかげおくり」を意識して、戦前の子どもたちの暮らしと道具を「ちいちゃんの時代」のモノ・コトと説明してみました。そうした話をすると、戦争の悲惨さについて学んでいた子どもたちは、真剣な面持ちで話を聞いてくれているようでした。また、年度の途中から、小学生の集合写真をパネルにして持参したところ、子どもたちのなかには、昔の小学生の姿や服装をじっくり観察する子も見受けられました。祖父母や父母の世代の子どもたちが自分たちとどんな風に違うのか、興味をもつ子もいたようです。
昔のまちについては、1960年代の空中写真をラミネートにした大きなシートを敷いて、子どもたちに見てもらっています。しかし、地図の見方がまだ覚束ない3年生にとっては少し難しいようです。ただ、自分の学校があるのか、自分の家があるのか、身近なショッピングモールは60年代にあったのか、などわかりやすい問いを立てることで、学校・地区の様子のうつりかわりを考えてくれているようでした。アンケートに「クイズをやってほしい」と書いてくれる子が散見されるのも、「クイズ」がとっつきやすいということなのかもしれません。
今年度、担当者は、昔の学校・昔のまちについて説明する機会が多かったのですが、手回し洗濯機や黒電話、千歯こきに人気負けした印象を強く抱きました。何が面白く感じるのかは人それぞれですが、昔の学校・まちについても、身体をつかって体験・学習できるような方法をもっと鍛えていかなければならないと考えています。これは今後の課題としたいと思っています。
「でばりぃ資料館」を依頼していただいた学校には、「たんけんシート」という学習シートを事前に配布しました。シートの問題を解きながら、学習してもらうもので、「くらしのうつりかわり」の学習に少しは寄与できたように思いますが、わかりづらい箇所もあるので、学校の先生の要望を踏まえて、少しずつ改善していきたいと考えています。子どもたちは「ギガスクール」により、一人一台タブレット端末を使っています。「たんけんシート」的なものも、タブレットで使えたり、見れたりできるとよいなと思いますが、今後研究が必要です。
「でばりぃ資料館」が増える一方、昔と変わらず、団体見学として利用していただく学校もあります。団体見学では「くらしのうつりかわり」展を中心に説明をし、数名の方に千歯こきの体験をしてもらっています。「でばりぃ資料館」では触れることのできる資料がガラスケースに入ってしまっているため、昔の道具などの印象は薄いようです。
しかし、団体見学の小学生たちをみていると、竪穴住居模型や粕壁宿町並模型、昔のおもちゃなどの体験コーナーなど様々な資料に興味をひき、社会科の学習単元以外の学習機会にもなっているようです。また、団体見学に来てくれた子どもたちは、週末などにご家族を連れてもう一度見に来てくれる場合が多いようです。団体見学には、子どもたちの興味関心を広げるメリットがあり、郷土資料館としてもリピーターの獲得のために良いのですが、学校は「でばりぃ資料館」を選択する傾向にあります。されど「でばりぃ資料館」は、所詮「出前」です。郷土資料館の全てをお届けできるわけではありません。団体見学をみて、今後は、「でばりぃ資料館」で出会った子どもたちに郷土資料館に来てもらう取り組みを構築する必要があると確信しました。これも来年度の課題とします。
来年度の備忘ため、課題や所感を長々と書きましたが、博物館と学校教育(博学連携)も取り組んでみるとなかなか奥が深いなぁと思う次第です。学校の先生方からの要望を汲み上げながら、郷土資料館は、今後も春日部でしかできない学びを子どもたちに提供できるよう、精進してまいります。
企画展示、無事にはじまりました
令和6年3月16日より、企画展示「*花の彩り*春日部*」展がはじまりました。 #桜咲くかすかべ2024 #かすかべプラスワン
今回のテーマは、ズバリ「花」。市の花「フジ」だけでなく、春日部は「モモ」「ボタン」の花の名所としても知られていました(知る人ぞ知るですが)。また、「花」のつく地名として「花積」「西宝珠花」の両地区の歴史にスポットをあてます。
資料をならべてみると、お花の歴史の展示というより、「花積」「西宝珠花」の展示になっちゃいました。
ここで、見どころを1、2点。1つめは、明治9年(1876)花積村の地租改正絵図。
これでもかっ!というぐらい大きい絵図で、展示ケース、ギリギリでなんとか陳列できました。花積は現在でもさいたま市岩槻区との境界が錯綜し、飛び地があるのですが、そうした状況がよくわかる絵図になっています。
2つめは、記録映画「宝珠花村の移転」。
映画といっても20分程度の映像ですが、昭和27年・28年に江戸川改修のため全戸移転となった宝珠花村の様子を撮影した貴重な記録です。これまでも、講座や展示で何度も紹介・上映している映像ですが、今回の展示で宝珠花の歴史を調べてから、また見直すと、新たな発見がいくつもありました。学芸員的に美味しい資料です。一度みた方も、何度もご覧ください。写真は移転後初の大凧揚げ。大凧の文字は「移転」と「記念」です。
こんな感じで、お花や花の地名など、春日部は花の彩りのなかで歩んできたことを紹介しています。5月2日(木)まで、お見逃しなく。
ところで、市内では、毎年恒例になっている、桜咲くマルシェというイベントを3月24日(日)やるそうです。「春日部のまちを花いっぱいにしたい」という想いに共感して、桜咲くマルシェともタイアップ。それから、市でも「かすかべSAKURAフェスタ2024」と題して各種イベントをやるそうです。一緒にお楽しみください。
越谷市海道西遺跡の調査と河畔砂丘
3月16日(土)に、春日部市郷土資料館で「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡(かいどうにしいせき)の調査」と題し、越谷市教育委員会生涯学習課の莵原雄大先生にご講演いただきます。
まだ定員に余裕がありますので、ご希望の方は、下記の通りお申し込みください。
●莵原雄大先生「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」
日程 令和6年3月16日(土曜日)午前10時~正午
場所 教育センター
講師 莵原 雄大(うはら ゆうた)先生(越谷市教育委員会生涯学習課職員)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み
海道西遺跡調査風景(越谷市サイトより)
海道西遺跡については、越谷市のサイトに紹介があります。
また発掘調査報告書は、全国遺跡報告総覧でPDFが公開されています。
海道西遺跡は、北越谷駅の北西側、宮内庁埼玉鴨場近くにあり、令和4年に発掘調査が行われ、平安時代の竪穴建物跡や近世の遺構・遺物が検出されました。
遺跡は、大林河畔砂丘上に立地しています。
河畔砂丘は、埼玉県東部地域に特有の地形で羽生市から越谷市まで24か所に存在します。利根川によって運ばれた大量の砂が河原に堆積し、冬の北西から吹く強い季節風により、川の東岸や南岸の自然堤防上に吹き上げられ形成されたと考えられています。
したがって、現在、砂丘の近くを流れる河川は利根川の旧河道であったということがわかります。春日部市内では、小渕、浜川戸、藤塚に砂丘があります。このうち浜川戸河畔砂丘は古隅田川沿いにありますが、利根川本流は一時期、現在の古利根川から、古隅田川、元荒川へと続く流路であったと推定されています。元荒川が続く越谷市内には、袋山、大林、北越谷、東越谷、大相模のいずれも元荒川沿い5か所に砂丘が存在します。一方、藤塚方面へと続く現在の古利根川の流路にも、藤塚のほかに松伏町の松伏や上赤岩に砂丘がみられます。砂丘は平安時代から室町時代にかけて形成されたと考えられています。
海道西遺跡では、砂丘砂の堆積層から、古代の竪穴建物跡が発見されました。これは、砂丘が形成されている時期も、砂丘上で人々が生活をしていたことを示すものです。春日部市内の砂丘でも、砂丘周辺に浜川戸遺跡や小渕山下遺跡などが立地しており、砂丘と人々の関係を考える上で重要な調査成果といえます。
今回の歴史文化講演会は、調査担当者による最新の調査成果のご報告です。ご興味がある方はぜひお申し込みください。
海道西遺跡出土遺物(越谷市サイトより)
騎西城跡・騎西城武家屋敷跡遺跡 十六間筋兜等特別展_3月の考古学情報(臨時)
加須市より、日程が迫っている情報がありますので臨時にお知らせします。
●3月24日(日)~29日(金) 騎西文化・学習センター(キャッスルきさい)騎西城跡・騎西城武家屋敷跡遺跡 十六間筋兜等特別展
今年度の「発掘された日本列島」にも出展された「十六間筋兜(じゅうろっけんすじかぶと)」を中心に、期間限定で展示されます。3月23日(土)と24日(日)には関連の講演会も行われます。詳細は、加須市のサイトをご覧ください。
【出張授業】でばりぃ資料館in南桜井小学校
令和6年3月5日(火)に南桜井小学校に出向き、第3学年の児童に向けて「でばりぃ資料館」を開催しました。
この日は生活科室と図工室を使用して「昔のまちの様子・昔の学校」ブースと「昔の家庭の道具」ブースを設けました。2クラスが各教室で1時間ずつという時間割なので、たっぷりと時間をかけてのお勉強です!
この写真は生活科室の様子。児童は“社会科ワークシート”というメモ用のプリントを持参し、職員の解説から気になった部分をメモします!
自由時間には黒電話や手回し洗濯機が人気で、体験してみたい子たちが行列をなしていました!道具を触って体験しているときの笑顔が弾けんばかり!子どもは楽しむ天才ですね♪
こちらは図工室の様子です。郷土資料館オリジナルの“探検シート”を利用して、昔の学校の道具の名前や、使用方法などを学びました。
ランドセルなどは形状こそ見慣れた形をしているものの、大きさや色が違います。昔は基本的には黒と赤しかありませんでした。しかし時代は変わり、現在は様々な色が選べるようになりました。こういった出来事がまた、何十年、何百年後に、歴史となって誰かが学ぶことになるのでしょう。
今回は、自由見学の時間も十分取れたので、持ち込んだ資料はしっかりと見てもらえたかと思います。
郷土資料館にはもっとたくさんの資料があるので、ぜひ一度足を運んでみてください!
企画展「*花の彩り*春日部*」展、絶賛準備中です
3月16日(土)から開催する企画展示の詳細な情報を公開しました。 #かすかべプラスワン #藤 #花積 #宝珠花
現在、春日部は「藤のまち」として広く知られ、また市の花「藤」を活かし、まちづくりを進めているところですが、春日部が藤のまちとして知られるきっかけとなったのは、フジとしては唯一、国特別天然記念物に指定されている「牛島のフジ」が市内に所在しているためです。「牛島のフジ」が国の紀念物に指定されたのは、昭和3年(1928)のこと。戦後施行された文化財保護法下では、昭和30年(1955)に国特別天然記念物に指定されています。
歴史をひもとくと、かつて春日部はフジの名所だけでなく、ボタン、モモの花の名所としても知られてきました。春先には小渕・藤塚・浜川戸・宝珠花・新宿新田などで桃の花が咲き誇り、牛島のフジが見ごろを迎えたころには、備後の牡丹、粕壁の牡丹が、内外の観光客の目を楽しませました。
以上のことについては、これまで「ほごログ」でも、そして展示でも紹介してきました。
今回は、藤、桃、牡丹といった華やかな植物の花だけでなく、市内の「花積」や「宝珠花」といった「花」の付く地名にも着目し、「花」をキーワードにして、春日部の歴史を彩ってきた花の歴史を展示・紹介します。
みゅーじあむとーくや展示解説講座も準備していますので、あわせてお楽しみください。
- 企画展示「*花の彩り*春日部*」展
- 会期:令和6年3月16日(土)~5月2日(木)
- 会場:郷土資料館企画展示室
- 休館日:月曜・祝日
- 入館料無料
- みゅーじあむとーく
- 日時:令和6年3月24日(日曜日)・4月20日(土曜日)午前10時30分~、午後3時~(各30分程度)
- 場所:郷土資料館企画展示室
- 内容:展示担当の学芸員が、展示室で展示内容を解説します
- 費用・申し込みは不要です。所定の時間にお集まりください
- 展示解説講座「春日部の花の彩りー花積と宝珠花」
- 日時:令和6年4月27日(土曜日)午前10時~正午
- 場所:春日部市教育センター
- 内容:展示担当の学芸員と展示資料を読み解きながら、花積・西宝珠花の歴史と魅力に迫ります。
- 費用:無料
- 申し込み:令和6年4月10日(水曜日)から、直接、または電話、電子申請で受け付け
・・・と告知をしてみたものの、いまだ展示資料を選定中。
初日まで残り2週間。果たして間に合うのでしょうか。こうご期待。
#かすかべ地名の話 (2) #粕壁
#かすかべプラスワン #地名の由来
一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」
第2回目は「春日部」と「粕壁」の話です。
前回、ご紹介したように「春日部」(かすかべ)の地名の由来はいくつかの説がありますが、どれも決定打がなく、ナゾなのです。
市民の方ならばご存じのとおり、「かすかべ」という地名は、「春日部」と「粕壁」の二つの表記が用いられています。「春日部」と「粕壁」の違いは何なのでしょうか。
まずは、「春日部」と「粕壁」の違いを考えるため、古い文献から地名表記の変遷をたどってみましょう。
「かすかべ」の地名の初見は、南北朝時代。延元元年(1336)の後醍醐天皇の綸旨といわれています。この古文書は後醍醐天皇が春日部重行(かすかべ しげゆき)という武士に、「上総国山辺南北」と「下総国春日部郷」の地頭職(じとうしき)を認めるため発給されたものです。当時、春日部重行が「下総国春日部郷」を治めていたことを示すとともに、「春日部郷」(かすかべのごう)という集落が下総国に所在していたことが明らかになります。埼玉県は武蔵一国なんて言われることもありますが、実は埼玉県には下総国も含まれているのです。
次の画像は、延文6年(1361)ないし、応永22年(1415)に作成されたと考えられる「市場之祭文」という史料の一部です(国立公文書館所蔵「武州文書」より)
ここにも「下総州春日部郷可市祭成之」とみえます。
その後も様々な中世の文献に「春日部郷」が散見されます。
中世には「春日部」と表記される地域に、人々が定住していたことが明らかになるのです。「春日部郷」は現在の市域の浜川戸近辺を中心とする集落だったと考えられています。
というわけで、古い文献にみえる「かすかべ」の地名は「春日部」となるのです。
時代が下り、時は戦国時代。
元亀4年(1573)の北条氏繁感状(写)は、関根図書助(ずしょのすけ)の戦功を賞した古文書ですが、このなかに「糟ケ辺」(かすかべ)の地名がみえます。関宿(千葉県野田市)からの軍勢が北条家の軍勢と衝突したのが、この「糟ケ辺」の地だったようです。
さらに時代が少し下り、天正17年(1589)3月の北条氏房朱印状(写)には、「御領所糟壁」と地名がみえます。この古文書は、岩付城主北条氏房が所領である「糟壁」に対して、諸役(労働役)を免除する代わりに、人を集め、耕地の開発に励むよう命じたものです。当時、「糟壁」が岩付城の城付の所領であったことがうかがえるとともに、地名としては「糟壁」という表記が用いられていたことがわかります。
しかし、古くは「春日部」と表記されていた地名が、なぜ「糟ケ辺」や「糟壁」という字句が当てられるようになったのかは残念ながら不明です。
さらに、天正18年(1590)と比定されている高力清長印判状(写)には、「糟壁新宿」という地名がみえます。この古文書は、岩付城主となった徳川譜代家臣の高力清長が、「糟壁新宿」の図書・弾正に対して、諸役を免除するかわりに人を集め年貢を納めるよう命じたものです。
江戸時代には、地名の表記としてはもっぱら「糟壁」が用いられるようになり、17世紀後半以降は「粕壁」という表記が増えていくことになります。ですから、日光道中の宿場町としての「かすかべ」は「糟壁(町)」や「粕壁(宿)」と表記され、時代が下るにつれ、「粕壁(宿)」が定着していくようになりました。
なお「粕壁」の表記は、宿場町の土蔵が「荒壁」であったから、または造り酒屋の「酒粕」に由来するという説もありますが、実際のところはよくわかっていません。
ただ、江戸時代の記録を細かくみると、「粕壁」ではなく「春日部」「春日辺」と表記することもあったようです。戦国時代から江戸時代にかけてみられる「糟ケ辺」「糟壁」「粕壁」という表記は、「かすかべ」という音を、漢字に当て、読みやすくしたものだけであり、漢字の字義は関係ないのかもしれません。
さて、明治時代、町村制が施行されると「粕壁宿」は「粕壁町」となり、東武鉄道を利用して藤の町・麦わら帽子の町・桐たんすの町として賑わいました。
その後、昭和19年(1944)戦時下での町村合併により、粕壁町は隣村の内牧村と合併し、「春日部町」が誕生します。「春日部」は後醍醐天皇を支えた南朝方の武士春日部氏の苗字であったため「春日部」の表記が選択されたようです。
上述の表記の変遷でみてきた通り、地名としては最も古い表記「春日部」が再び使われることになりましたので、地名「春日部」が復活したともいえるでしょう。
そして、昭和29年(1954)春日部町と武里村・豊春村・幸松村・豊野村の1町4町が合併し、春日部市が誕生します。
春日部町・春日部市の成立によって、東武鉄道の粕壁駅は春日部駅、旧制粕壁中学校は春日部高校と、公共的な施設等には「春日部」という地名が使用されるようになりました。今でも春日部市域全体を指す場合は「春日部」という表記が用いられます。
「春日部」が市域を覆う一方、「粕壁」表記も併用されています。粕壁は、江戸時代の宿場町だった区域の地名として使用され、「粕壁地区」「粕壁東」などと表記されます。春日部市立粕壁小学校は、現在は春日部市が設置した粕壁地区の小学校で、両方の表記が併用される伝統の小学校です。
以上のように、表記の変遷としては、「春日部」が最も古く、紆余曲折をへて「粕壁」が生まれ、そして「春日部」が再び登場するという過程をたどり、現在の用法としては「春日部」は市や町全体を指す地名、「粕壁」は春日部のなかの粕壁地区を指す地名として併用されいる、とまとめられます。
長くなりましたので、次回は粕壁のなかの小さな地名について、紹介したいと考えています。不定期ですが、お付き合いください。
「かすかべ地名のはなし」バックナンバー
粕壁小学校の3年生が郷土資料館を見学しました
令和6年3月1日(金)に粕壁小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。
この日は、企画展示室の「くらしのうつりかわり」展を中心として“昔の生活の様子”を学び、残りの時間を自由時間にして館内全体を見学してもらいました。
企画展示室での昔の生活の解説時には、昔の炊事や洗濯などは手作業によるものが多いことから、児童からも「たいへんだねぇ~」という声が。
時間の流れが速く、複雑化した現代では何事も機械に頼らなければならず、昔と同じ作業をして生活することはとても難しいことでしょう。
千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀は各クラス代表5人に体験してもらいました。
体験の光景を眺める児童の中には“自分もやりたかった~”と残念がる子も普段は多いのですが、「やりたいけどがまん!!」と自分を律する子がいたのには驚きでした!えらい!
自由見学の時間では、かつて粕壁小学校で使っていた机や椅子などに腰掛ける児童や、桐箪笥に興味を持つ児童の姿が!実はこの桐たんすの中にも資料やクイズか仕掛けられていて、発見した児童は楽しそうにチャレンジしていました♪
ちなみに粕壁小は1~4時間目を利用して、1クラスずつ入れ替わりで見学するスタイルでの実施でした。というのも、粕壁小学校と郷土資料館(教育センター)は隣に位置しており、校内で教室移動をするのとさほど変わらない速さで来られてしまうからです!
お家が近い児童も多く、郷土資料館に来たことのある子もほかの学校と比べて多いようです。「この前来た!」と言ってくる子もいるほど!
せっかく近くにある郷土資料館です。これからもたくさん遊びに来てくださいね♪
2月の近隣博物館・資料館の考古学情報
2月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。
見学の際は、休館日等、よくご確認の上お出かけください。
(現地説明会)
・3月8日(金)13:30~ 清水遺跡(茨城県境町) 公益財団法人茨城県教育財団
(展示会_閉会日順)
・3月3日(日)まで 埼玉県立嵐山史跡の博物館 「武蔵武士の食と信仰―食べて 祈って 戦って―」
・3月24日(日)まで 本庄早稲田の杜ミュージアム 「弥生時代の児玉・深谷地域」
・5月12日(日)まで 杉並区立郷土博物館分館 「発掘された弥生時代」
・4月21日(日)まで 取手市埋蔵文化財センター 「祈りのかたち―出土品から見る先史時代の祭祀―」
また3月16日(土)には、春日部市郷土資料館で「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」と題し、越谷市教育委員会生涯学習課の莵原雄大先生にご講演いただきます。
まだ定員に余裕がありますので、ご希望の方は、下記の通りお申し込みください。
●莵原雄大先生「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」
日程 令和6年3月16日(土曜日)午前10時~正午
場所 教育センター
講師 莵原 雄大(うはら ゆうた)先生(越谷市教育委員会生涯学習課職員)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み
緑小学校の3年生が郷土資料館を見学しました
令和6年2月29日(木)に緑小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。
1組と2組が同時に来館のため、クラスごとに常設展示室と企画展示室に分かれての解説です。今日は社会科の調べ学習ということで、児童たちもメモを取る気満々でした!
常設展示室では、竪穴式住居や日光道中の模型を見ながら学芸員の解説を聞きました。竪穴式住居は原寸大の迫力が、日光道中の模型はミニチュアの繊細さがあり、見るだけでも楽しめますね♪
企画展示室では、昔の家庭で使っていた道具である“羽釜”や“洗濯板”など、現代の電気を動力とした道具との違いを学びました。
たくさんある展示を前に、子どもたちは「めったに見れないものがたくさんある!」と嬉しそうでした!
実はこの日は、同じ時間に他にも団体見学のお客様や、海外からの旅行者の方も来館するなど、午前中の資料館は大賑わいでした!
自由見学の時間には展示品をよく観察したり、スタンプを押したり、おもちゃで遊んだりと満喫してくれました!
見学終了の時間になっても、まだまだ帰りたくない様子の緑小3年生でした♪
郷土資料館は土日も開館しているのでぜひまた遊びに来てください!
凧作り教室を開催しました
2月25日(土)、春日部市「庄和大凧文化保存会」の方々を講師にお招きし、3回目の凧作り教室を開催しました。当日は、小学生を中心に17名に参加いただきました。
第1回目、第2回目の様子や凧の作り方はリンク先をご覧ください。
さて、今回は、保存会の方にも教えていただいた凧の「糸目中心」について考えてみます。
今回、凧の糸目(凧とあげ糸を結ぶ糸)は、凧の上側の両角と、凧の中心に3本の糸を結び付け、凧の上から14㎝のところで円板の金具でおさえ、3本を結び合わせました。凧の全長は約60㎝で上半分が30㎝となるので、やや上によった位置に糸目中心を設定したことになります。
この糸目中心の位置によって、飛んでいるとき凧の角度が変わります。より上に中心を設定すれば、上につけた糸目がさらに短くなり、凧は地面と平行に近くなります。逆に、より下に糸目中心を設定すれば、上につけた糸目が長くなり、地面と垂直に近い角度に近づきます。これらにより、凧にあたる風の強さが変わります。
この力と、地面から凧を引っ張る力がうまくつりあえば、凧は安定して飛びますが、ずれるとくるくる回ったりしていしまいます。今回の凧作り教室では、糸目をほどけるように結んでいますので、糸目の中心をいろいろ変えてみて実験してみてくださいと、保存会の方はお話しされていました。
さて、5月3日と5日に行われる大凧あげまつりでは、5日の午前中に、創作凧揚げ大会として会場で自分で作った凧をあげることができるそうです。ぜひ5月5日の午前中に大凧あげ祭りの会場で凧をあげてみてください。
<大空に夢を飛ばそう!!創作凧あげ大会2024~君の夢が空を舞う>
とき 令和6年5月5日 午前9時から11時
場所 春日部市西宝珠花江戸川河川敷
参加方法 自作オリジナル凧にて自由参加
【出張授業】でばりぃ資料館in川辺小学校
令和6年2月27日(火)に川辺小学校に出向き、第3学年の児童に向けて「でばりぃ資料館」を開催しました。
川辺小学校は郷土資料館からやや遠くに位置しており、なかなか当館への来館が難しい学校の一つかもしれません。
だからこその“でばりぃ資料館”です!以前もでばりぃ資料館を活用していただいたことがあり、今回もご用命をいただきました!
今日は図書室と生活科室を利用しました。
生活科室では昔の学校の様子と、昔の農業(脱穀)体験をしました。
床面に広げた1960年代の空中写真には、まだ存在しいない学校も多いのですが、川辺小学校の開校は1874年(明治7年)のため、写真から探すことができました!
この空中写真の時代には、春日部にはララガーデンもイオンもなく、コンビニもなかったことでしょう。川辺小学校は歴史ある学校なんです!
また、1917年の川辺小学校の写真を保有していたため、児童にみせたところ、“白黒の写真”“机のない教室”“木造作りの校舎”などに驚いたようで「信じられない!!」という声が聞こえてきました(笑)
図書室では昔の家庭の道具を解説です。
炭を動力としたアイロンや七輪、竈でご飯を炊くための羽釜など、今では当然のようにある電気やガスが昔は当たり前ではなかったことを学んでもらいました。
生まれた時から周囲にあるものは、こういった授業などであえて意識しなければ、意外と気づくことができません。昔を知ることで、今の生活のありがたさも、一方で起こる弊害も児童に知ってもらえたらと思います。
今日は各ブース20分と若干短くせわしなかったかと思いますが、その分児童は飽きる暇もなく充実した時間を過ごしてくれた様子でした!
来年もまたでばりぃ資料館のご依頼お待ちしております!
【出張授業】でばりぃ資料館in上沖小学校~延長戦~
令和6年2月22日(木)に上沖小学校に出向き、第3学年の児童に向けて「でばりぃ資料館」を開催しました。
つい先日8日にも上沖小にはお邪魔したのですが、実はその時1クラス学級閉鎖になっていたため、でばりぃ資料館を体験することができなかったのです。
そこで今回は、前回体験できなかった1クラスのために出張って来ました!せっかくの特別授業ですから、ぜひ楽しんでいってください!
今回は生活科室を利用して、内容は前回と同じく「昔の学校の道具・60年前の春日部」「昔の家の道具」になります。
「昔の学校の道具・60年前の春日部」のコーナーでは、空中写真から昔の上沖小の周辺の様子を探ったり、昔の学校で使われていた道具に触れる体験をしました。
「昔の家の道具」のコーナーでは、黒電話や手回し洗濯機などの道具の説明や、今と昔との違いについて解説を行いました。
炭火アイロンの説明の時にはこんなやりとりが、
職員「どうして炭を使ってアイロンを温めたのかな?」
児童「電気がなかったから!」
職員「そうですね、電気がまったくなかったわけじゃないけど、あんまり普及してなかったということです。今は、電気のアイロンとかね、アイロンじゃないのもあると思うけど・・・」
児童「ファブ〇ーズ!!」
確かに、シワ取り効果を謳っているものもあるようで、意外かつ現代的な回答でした(笑)
自由時間には見学、体験、そして疑問に思ったことを質問してきてくれました。
話を聞くときはしっかりと聞き、楽しむときは思いっきり楽しむ3年1組でした!
これにて上沖小3年生、4クラスすべてがでばりぃ資料館受講完了です!
先生としては1クラスのためにまた来てもらうのが申し訳ないようでしたが、そんなことはございません!日程の都合等は要相談ではありますが、子どもたちの学習のために、今後もぜひ郷土資料館をお役立てください♪
八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました
令和6年2月16日(金)に八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。
今日は校外学習ということで、強風の中、30分くらい歩いて郷土資料館まで来てくれました!
約60年ほど前の生活から現在に至るまでの「くらしのうつりかわり」についての学習がメインということで、今企画展示室の「くらしのうつりかわり~なつかしの暮らしの道具~」展の解説とともに、資料館内にある模型を中心とした解説も併せて行いました。
まずは竪穴式住居の模型を見ながら、約5000年前の縄文時代の生活について解説です。
郷土資料館に入ると目に飛び込んでくるのが、縄文時代の竪穴式住居!子どもたちからも「リアルだ・・・」という声が漏れてきます(笑)
竪穴式住居の中には、「木の実」「魚」「貝」などの当時食べていたものや、「炉(ろ)」「土器」など生活道具が見て取れます。ちなみにこの土器の中で煮られているのは「かき」です。現在でも食卓に並ぶものが5000年前も食べられていることは大きな発見だったようです!
続いては日光道中粕壁宿の模型を見ながら、約200年前の春日部について解説です。
日光道中は江戸時代に日本橋から日光に向かうために作られた道です。その宿場の一つとして作られたのが粕壁宿。おかげで春日部に“まち”ができたんですね!
そして企画展示室では、約60年前の生活についての解説をしました。
洗濯板やアイロンなど、現在は電気で動くものも、当時は手作業であったり、電気以外の動力(炭など)を使用していました。
手作業の一つとして、千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀の体験もしてもらいました!
自由見学の時間には、たくさんの展示と遊べるおもちゃなどで、存分に資料館を満喫している様子!
今日はたくさんの“昔”を学ぶことができましたね♪
今日は風が強くて歩いてくるのが大変だったかもしれませんが、郷土資料館は土日も開館しています(祝日は休館)ので天気のいい日にまた遊びに来てください!
3月3日、16日に歴史文化講演会を開催します
郷土資料館では3月に2本の歴史文化講演会を開催します。
どちらもただいま参加受付中です。お申し込みはお電話、電子申請からどうぞ。
みなさま、お誘いあわせの上ご参加ください。
●郷土資料館歴史文化講演会 平野明夫先生「徳川家康の関東入国と岡部氏」
関東地方の歴史に大きな影響を及ぼした徳川家康の移封と、それに伴い野田に入り、本市域にも所領があった岡部氏について、中世史がご専門の先生にわかりやすく解説していただきます。
日程 令和6年3月3日(日曜日)午後2時~4時
場所 教育センター
講師 平野 明夫(ひらの あきお)先生(國學院大學兼任講師 日本中世史)
募集人数 80人(申し込み順)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み
●莵原雄大先生「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」
砂丘から発見された平安時代の遺跡について、調査を担当した越谷市職員を講師に迎え、わかりやすく解説していただきます。
日程 令和6年3月16日(土曜日)午前10時~正午
場所 教育センター
講師 莵原 雄大(うはら ゆうた)先生(越谷市教育委員会生涯学習課職員)
募集人数 80人(申し込み順)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み
#かすかべ地名のはなし (1) #春日部 の由来
#かすかべプラスワン #地名の由来
一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」
第1回目は、地名「春日部」の由来の話です。
「春日部」という地名は、現在でも市の名称、駅の名称、県立高等学校の名称など、公共施設や民間業者の名称にも使われています。自動車のナンバープレートにも採用されているので、「春日部」の地名は県外の方にもお馴染みのようです。
「春日部」の字義や意味については、いくつかの説があります。
第一には、今から1400年以上前、大和時代の安閑天皇(あんかんてんのう)の皇后である「春日山田皇女」(かすがのやまだひめみこ)など、春日の名がつく皇后・皇女に仕える人々が所在した「御名代部」(みなしろべ)であったという説です。「春日」の「御名代部」であるから「春日部」となったというものです。この説は「春日部」という字義を説明している点では、有効ですが、いかんせん大和時代という資料が限られている時代に起源を求める説であるため、様々な疑義が残ります。また、「春日」の「御名代部」は、全国に数十か所あったといわれており、現に兵庫県丹波市(旧春日町)には、「春日部」という地名があり、「春日部小学校」という小学校もあります。埼玉県の春日部が本当に大和時代の「御名代部」だったのか、想像は膨らませられますが、証拠がなく、謎に包まれています。
「春日部」の意味の第二の説は、古くから大きな河川が流れこむ当地の地形や立地にその起源を求める説です。「カス」は水が浸った不毛な土地、「スカ」は川沿いに堆積した微高地、「カワベ」は川のほとり。そうした言葉が組み合わさり、当地が「かすかべ」と呼ばれるようになったというものです。この説は、読み方・音に着目した説となりますが、なぜ「春日部」(あるいは「粕壁」)と漢字で表記するのかは説明できません。ただし、古くから川とともに暮らしてきた当地の歴史的な特徴をとらえており、近隣にも「スカ」(須賀)や「カワベ」(川辺)、あるいは河川に由来する地名もあることから、説得力があるように思えます。
漢字に注目すれば「御名代部」説。読み方や音に注目すれば地形起源説。二者択一で決定づけることはできず、春日部の地名の由来は謎(定説はない)なのです。
さて、地名の由来として、よく言われる「春日部氏」説にも触れておきましょう。
当地には、平安時代末ごろから春日部氏という武士が住んでいました。そのことから、春日部氏を地名の由来に求める説が、かつては唱えられていました。春日部氏は、もともと京都の貴族である紀氏の流れをくむ一族で、大井氏、品川氏ほか、現在の東京都品川区・大田区付近に同族が土着していました。彼らは、その土地に土着するにあたり、自分たちの苗字を「大井」「品川」と名乗った一族でした。春日部氏も一時は「大井」を名乗り、その後「春日部」に苗字を改めたようです。したがって、春日部氏は、すでに「春日部」と呼ばれていた当地にやってきて、「春日部」と名乗ったと考えるべきでしょう。春日部氏を地名の由来とする説は成り立たないということになるのです。
が、いまでも「春日部氏地名起源説」が語られることも少なくありません。この説が根強いのは、老若男女に分かりやすいことと、春日部氏を英雄視する歴史の見方が背景にあるように思えます。また、「御名代部」説、地形起源説に決定力が欠けるということも原因なのかもしれません。
結論的にいえば、
「春日部の地名の由来は謎ですが、「春日部氏地名起源説」だけは違う」
このことだけ、強調しておきたいと思います。
少し長くなりましたので、続きは次回に。次回は、地名かすかべの表記について。
かすかべの地名は現在でも「春日部」「粕壁」の二つの表記が用いられています。
それはなぜでしょうか?
また表記として古いのは、「春日部」or「粕壁」?
そんな話を書きたいと思います。
ヨデハタキって何? #民具 の世界
先日、市民の方から資料をご寄贈いただきました。寄贈資料のなかから民具を一つ紹介します。
この民具は何をする道具でしょうか。
道具の名前は「ヨデハタキ」です。柄の長さは83センチ。すべて木製です。
名前を聞いても、都市化された春日部で生活する我々はピンときませんね。
「ヨデハタキ」は、田んぼの「クロツケ」の時に使う道具です。
「クロ」とは、田んぼと田んぼの間の境にある畝(うね)のことで、「クロツケ」とは畝(畦あぜ)をつくる作業のことです。
ご寄贈いただいた庄和地区の方は「ヨデツケ」ともお話しされていました。春日部あたりでは、畝や畦のことを「ヨデ」とも呼んだようです。
「ヨデハタキ」は、先端の平らな部分で畦をたたいたり押したりして、平らにするための道具のようです。ご寄贈いただいた方(80代)の方によれば、子どものころ「ヨデツケ」を手伝わされたそうです。畦がわれたり、ヒビわれたりしないように、「ヨデハタキ」に水をつけて畦の土を滑らかにしていくそうです。畦を「羊羹みたいにする」とお話しされていました。「羊羹」は、みずみずしく水分が含まれていて滑らかな感じがします。土を「羊羹」のようにするという表現がとても印象的でした。
さて『庄和町史編さん資料13 民俗Ⅲ』によれば、「クロの土に厚いところと薄いところがあるといけない。クロの上部を平らにし、真っすぐにしないといけない。百姓は境(畦境)にうるさい」との聞き取りがあります。「クロツケ」「ヨデツケ」が用水や排水の関係や耕地の境界を整える重要な作業だったことがうかがえます。
しかし、現在はトラクターでできる作業なので、この道具も不要になってしまいました。一見すると、お風呂のかき混ぜ棒(これも見なくなりました)のようですが、春日部の農業の発展の一端を担ってきたものであることには間違いありません。
ただ、ご寄贈いただいた方にこの道具の名前を聞いたとき、はじめは「なんだっけ?」とお話しされていました。とっさに「ヨデハタキ」ですか?と聞いたら、「たしかそう」というご返答。以前、他の方から「ヨデハタキ」をいただき、思い出せたのですが、本当に「ヨデハタキ」と呼んでいたのか、実は不安です。
ご寄贈をいただくとき、その道具(民具)に付随する情報(名称・時代・使用経歴などの情報)をきちんと聞き取り、記録しておかなければ、無用の長物になってしまいます。道具を実際に使っていた方も、道具の名前だったり、いつ頃使っていたか、記憶があいまいになってしまいがちなのですが。。。
民具は時代や地域によって、名称・形状・使い方に差異が生まれます。事例を蓄積して、時代・地域の差異を検討していくことで、民具研究は進展していくといわれています。民具の世界は奥深いです。
これは、本当に「ヨデハタキ」でよいのか。またほかの地域では何と呼んでいるのか。「ヨデハタキ」に関してご存知の方、いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。